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如実な気配


如実な気配は、どのような人物にも斟酌しない。心得のある人物であろうが、心根の腐った人物であろうが、皆等しくその背後にまとわりつく。ただ、まとわりつくといっても「ピタリ」という具合に接近するわけではない。如実な気配にしても、一定の距離を保つだけの分別は持ち合わせている。どのような事実であれ、率先して開陳する必要性は全くない。所詮、自分だけがわかっていれば良いことだ。

如実な気配が最も忌み嫌うのは「大それた事象」である。さざ波のような穏やかな日常を希求する如実な気配にとって、大波や高潮などの事象は願い下げである。最も、いくら拒んだからといって、それらの到来を回避することはできない。波はただ押し寄せては引いていくだけであり、こちら側に対して、何らかの腹積もりがあるわけではないのだ。もちろん、実際に波を問い質したわけではないので、実際のところは不明である。真実は波の中だ。

如実な気配は、血沸き肉躍る体験や空前絶後の事象とは無縁な生活を営んでいる。それはとりもなおさず、気配を維持するためだ。そもそも気配というのは「薄らぼんやりとしたもの」であり、その外容も内実も極めて曖昧な存在である。刺激的な体験や目新しい事象に興味を抱くということは、鋭角的な存在に近づくということに他ならない。尖れば尖るほど、生活自体が勢いを増す。自然、勢いに巻き込まれて、意に添わぬ状況に追い込まれる可能性も高くなる。であるからして、如実な気配は、日常を平坦化することに腐心しているのだ。この事実は、どんなことを差し置いてでも、お断りしておきたいことである。

薄闇の中から、微かに羽音が聞こえる。その音は、死の出来を予感させるものだった。一人の老人は今、生と死の瀬戸際にいる。あとほんのわずかな要素が加われば、老人は死の淵に引きずり込まれ、二度と現世に這い上がれなくなる。老人はただ静かに、自身の死を嘆いている。だが、その嘆きには悲壮感は全くない。老人はただ「死を嘆くという儀式」を通り一遍に行っているだけだ。嘆くという行為を経由しなければ、死は結実しないのである。

老人の身体からは、微細音が途切れることなく発せられている。その音は疑いの余地なく、生命の鼓動である。老人がこの世に生を受けてから今の今まで、その鼓動は一時たりとも鳴り止んでいない。鼓動には、意思も意図も作為もない。ただ機械的に生命を突き通すことが、鼓動の唯一の役割である。鼓動の執拗な突き上げがあってはじめて、生命は駆動するのだ。鼓動の立ち居振る舞いは、牧羊犬のそれと酷似している。

ややあって、老人は息を引き取った。その両眼は涙に濡れていたが、同時に光も宿していた。事ここに至って、老人の生命は、余すことなく攫われた。その生命に付随する一切合切が、物の見事に召し上げられたのである。その様子を見届けた者は誰もいない。それこそが、老人が最後に望んだことだった。老人は、世を去る直前まで「無人の舞台装置」を一人で拵えていたのである。

舞台装置が完成を見ることはなかったが、その制作過程において、老人は生気に満ちていた。老人の生命がこれほどまでに活気に溢れていたことは、その長い人生において一度もなかった。眼前に迫る死がきっかけとなって、その生命が最大限に躍動したのである。役目を終えた老人の身体は、厳かな光に包まれていた。老人をいたわるかのように、光はゆったりとその場に漂っていた。




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