夜空の一番


夜空の一番は、なんといっても月である。夜空に煌めく星も捨てがたいが、なにせ数が多すぎる。数が多ければ多いほど、情愛は分散してしまう。それに、星というのは時刻や季節によって、見える位置が大きく異なる。星は常に動いているのだ。そのため、気まぐれに「お目当ての星がある方角」を見やったとしても、毎回必ず視認できるわけではない。星には星の道理というものがあるので、人間の浅薄な希望になど斟酌しない。そのような星の「気まぐれ体質」を好ましく思う人もいるだろうが、私はそうではない。星に振り回される人生などまっぴら御免である。

星に比して月は良い。星のように目まぐるしく動かないのが殊更に素晴らしい。もちろん、月にしても全く動かないというわけではない。それどころか、かなりの勢いで動いている。もしも月が動きを止めてしまったら、地球とぶつかってしまうだろう。月ほどの大きさの物体が地球に衝突したら、一体どうなってしまうのだろうか。想像するだに恐ろしい。月が地球に落ちないように、ただひたすら祈るだけだ。

月は、自身が有する攻撃性を自覚しているように見える。まるで、地球に棲まう生物を弄んでいるかのようだ。もちろん、これはただの推測に過ぎない。地球という遠く離れた地から、一方的に月を見上げて思い及んだだけである。月という地球の唯一の衛星に対して、得手勝手な思いを託しているだけだ。まぁ衛星にしては異様に大きいのだが、そこはご愛敬である。人間が生み出した惑星や衛星の区分など、月は歯牙にもかけないだろう。

月は太陽のように、自らが光っているわけではない。月が光って見える部分というのは、太陽の光が当たっている部分である。言うなれば、月という舞台の上で、太陽光というスポットライトを浴びているのである。だが、どれほど目を凝らしたところで、月に役者はいない。そもそも月の土壌には、演じ手という存在が不要なのである。月は、満ち欠けという営為を繰り返すことによって、自らの特質を存分に演出しているのだ。己に与えられた役儀を完全にやり遂げているのである。

私達にできるのは、月が満ちて欠ける様子をぼんやりと眺めることだけだ。それこそが、地球という観客席の一員である我々に課せられた役割なのだ。観客が舞台に上がろうなどと考えるのは野暮である。月には月の領分というものがあるのだ。月は、天体という大伽藍において、誰憚ることなく、その唯一性を存分に発揮しているのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?