魚の白身


私の眼前には、魚の白身が横たわっている。その様子は大層ふてぶてしく、「ワシがここに置かれているのは至極当然のことであり、異議を唱えようとしても全くの無駄である」と主張しているかのようだ。魚の目は、虚空をじっと見つめたまま、ぴくりとも動かない。視界を遮るものはなにもなく、それでいて全てのものが集約されている一点に対して視点を固定しているのである。視点の土台となるものはとてつもなく強固であり、外界からの干渉を苦も無く撥ねつけていた。その土台は、観測の邪魔になり得る事象の一切合切を晴れやかに拒絶していたのである。

数時間前、魚の白身は、覚束ない足取りで盆の上に横たわった。その様子はまさしく「大儀」といった風情であり、私の頭には、億劫、面倒、厄介などの言葉が浮かんだ。もちろん、そのような言葉は、私が勝手に抱いたイメージから浮かび上がったものである。そのため、魚の白身の内実を精確に反映したものではない。実際は、私のイメージとは真逆に、喜び勇んで盆の上に駆け上ったのかもしれない。なぜかはわからないが、夏祭りの櫓に設置されている太鼓を力任せに叩く子供の姿がふいに頭に浮かんだ。もしも目の前の魚の白身が人間だったら、幼少期にはそのような体験をしたかもしれない。人間ではないのが悔やまれる。

だが、魚の白身にしても「魚として生まれたからこそ体験し得たこと」はたくさんあるだろう。小川のせせらぎを一身に感じながら悠々と泳いだこと、小腹が空いたので泳ぎながら小エビをぱくりと一飲みしたこと、泳ぎ疲れたので岩に身を横たえてゆっくりと休んだこと。それらの体験のうちのどれもが、現在の魚の白身を構成する要素になっているのだ。体験からどれだけの滋養を吸収して、己の活力に転じ得るか。そのことが生命をまっとうする上での重要なバイタリティになるのである。

魚の白身は、自分がどこで生まれたか、どんな親から生まれたかといったことを知らない。最も古い記憶は、川底から断続的に発生する気泡の様子である。無数の気泡は、川の水面を目指して、ゆらりゆらりと上昇していく。その営為は、落ち着いた手段を用いて対象を優しく導くような極めて蠱惑的なものだった。魚の白身は、川底の水を一口飲んでから、すぐさま吐き出した。「自分も気泡と共に上昇して、水面の水をごくりと飲みたい」これこそが魚の白身が抱いた原初の願望であった。物事の初めとしては、すこぶる上等な願いである。




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