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映画「浜の朝日と嘘つきどもと」感想


「映画って、半分は暗闇を見ているんだって。」

初めは、落語界のアイドル「キョンキョン」こと柳家喬太郎師匠が映画に出演すると聞いて、おすすめされた映画だった。
いつも落語会で聴きに行っている落語家さんが出演されるということでなんだか身内が映画に出るような、ならば晴れの姿を観にいかねばという授業参観のような気持ちで映画館を訪れたのでした。

さらに、主演の高畑充希さんは以前、映画「鎌倉ものがたり」を観た時からすっかりファンになっていたので彼女が出るならきっといい作品だろうなと思っていました。

感想はというと、そんな軽い気持ちで観にきたのを叩きのめされるかのような素晴らしい映画でした。


「映画で腹は満たされない。けれど、生きてくのには飯だけではままならない。」

作中に登場する人物は皆、目を逸らすことのできない日本で起きた、また今目の前に起きている現実を経験している。
主人公あさひは東日本大震災で親の仕事が原因で学校で孤立し、家族はバラバラになり居場所を無くした。
親から金の無心をされたり、不況で家族が自殺をしてしまう、外国から日本へ仕事を探しにきたら労働搾取に合う。
そんなどうしようもない人生で、腹が満たされるわけでもない映画をなぜこんなにも求めているのか。

ラストシーンで映画館を眺めるあさひと森田支配人が語る言葉は真正面からその答えを我々に打ち返してくれる。


「ネット配信で映画を見れる時代になぜ映画館を残したいのか。」
あさひと茉莉子先生、家族という繋がりを信じることが出来なくなった二人はただ一緒に映画を見る時間を過ごすことで家族以上に大切な存在へとなっていった。
ふと、今映画を見ている私たちも同じではないか。家族でも何でもない他人が同じ映画を見て、同じ時間を過ごしているこの状況は同じではないか。

作中で、「今は皆、ネット配信で映画を観る。若い人はYouTubeとか観ているんだよ。」というセリフがあるが、まったくその通りだ。
かくいう私も配信サイトに登録してこれでいつでも映画が見放題だ!と、豪語しながら結局今月は一作も観なかったな、なんてことを繰り返している。
というのも、映画館には他人同士が一つの閉じられた空間に集まるのだから、他人のマナーの悪さが気になったり嫌な思いをすることもあるから足が遠のいてしまうというのもよくある話だ。
(個人的には、上映中に携帯を開いたりする人が暴行されない日本はなんて理性的な人たちばかりなんだろうと思っている。)
なぜ映画館でのマナーの悪さには普段の何倍もはらわたが煮え繰り返るのかというと、私の一つの考えとして、閉鎖的な空間に閉じ込められていることが一つの共同体のような意識をもたらしているのではないかと思う。
逸脱する存在がより憎く感じるほどに、同じ時間、同じ一つのものを共有するということは強い繋がりがある。
それが孤独に寄り添い、自分を作るものになってくれる。そう私は思います。

「あさひのファッションについて」
あさひのファションの変わり具合もよく考えられた表現だと思った。
高校時代の彼女は先生から「真面目な子」と称されるように、年頃にしては派手に着飾っていない、ボーダーのシャツやショートパンツ、デニムのサロペットなど、いわゆるフツーの格好をしている。
大人になり就職した彼女は、垢抜けたと言われるほど化粧もバッチリし髪にもウェーブがかかり、服装も社会人だがクリエイティブな仕事についている人だと思わせる、都会の女性といういでたちになっていた。
さらに、仕事を辞めて南相馬市に帰ってきた彼女のファッションは以前とは変わり、化粧はナチュラルになったが髪型がテクノカットっぽく切りそろえられた独特なショートカット、そして服装はより原色的な色味が強い服が多く、個性的になっていく。
まるでその変わっていく様は彼女が自分の進む道を選んでいく意思の強さに比例していくようである。
またファッションを考えていく上で印象的なのはパールを使ったピアスをよく使用していたことだ。
作中、顔のアップで撮られるカットが多かったことから自然と耳に光る大粒のパールに目がいくが、彼女のボーイッシュなファッションにしてはパールとは上品なアイテムを取り入れたものだ、甘辛ミックスファッションがあるように、あえて対照的な小物を取り入れることで雰囲気にメリハリをつける手法があるが、私はあえて違う説を取りたい。
元来、パールは冠婚葬祭でもつけられるジュエリーとして有名だが、それは真珠の玉が涙を表しているという考えがあるからだ、とすると彼女の身に纏う大粒のパールは亡き先生偲ぶ気持ちの表れなのではないかと思いたい。
なぜなら、先生の生前にはパールのアクセサリーは付けていなかったのだから。

「タイトルの謎について」
もともとタイトルの「浜の朝日の嘘つきどもと」はあんまりピンとくるタイトルではなかった。
「あさひ座」をタイトルに持ってきた方が映画館という舞台が引き立つような気もする。
しかし、このタイトルにも何か意味があるのではないかと深読みしていくと
主人公、浜野あさひはとある事情から本名を名乗りづらく咄嗟に茂木莉子の偽名を名乗る。
タイトルを素直に読み解くとしたら浜野あさひが嘘つきだという意味だ。
しかし、「嘘つきどもと」と題されるということは嘘つきは一人ではないということではないか?
映画の中で他にも嘘つきがいたのではないか、そう考えるとまた映画の見方が変わってくる。
支配人の森田は飲む打つ買うで作ったような恥ずかしい借金ではないと言っていたが、本当にそうなのか?
茉莉子先生は赴任先が変わったから映画館に通えなくなったというが、本当にそうなのか?
作中の人々は誰も彼も真っ直ぐで優しい人たちとして描かれているからこそ、このタイトルの矛盾がひっかかる。
同じ疑問を思った人の意見を是非聞いてみたい。

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