色は匂へど散りぬるを(2022/10月傑作選)

枯れゆく命よ、儚く強くあれ

・上の記事の続きです。どんどん今に近づいてるので内容が薄くなってきてます。2022/11月以降はnoteに移行して書き始めたので、当分纏めないつもり。ふせったーはTwitterが関連してる以上いつ見れなくなったりするか分かりませんからね。


叫ぶノイジー(10/3の雑記)

死は救済とか言うヤツが嫌い。めちゃくちゃ嫌い。本気で死について考えた事ある人間ならそんな事は殆ど言いやしないだろうと思ってるから。間違いなく終着点、転換の節目である事は確かだがそれは救済では無い。誰もが終わる事を美学だと思っているのか。肉体と言うデバイスを捨てた先に何があるか分かりやしないのに救済っておかしいだろ。その癖、多くの人間は死んだ人間に真に寄り添えやしない。ある事ない事、自分の尺度が絶対みたいに貶す人が多過ぎる。だから、人は死ぬんだよ。こんな現実よりはマシだと逃げる、眠るように。その先が分からないとしても、生き続けるよりはマシだから。生き続けたら良い事あるよとか、大丈夫だよとかの言葉は多くは上辺でエゴでしかない。

最近、自分の中にある強烈な選民思想みたいなのをよく感じるようになった。良くない、とは思ってるけどこれを間違いだとも思いたくは無い。それをなあなあで鎮めて1人で苦しむのは嫌なので……。これを俗に言う厄介だと思うんだけど……なんかもう疲れてきたな。だって、私1人がこれを言っても意味が無いんですよ。これは身に有り余り、無相応な刃だから。そして人を遠ざけるモノでもある。これを振るう気もないのに持ち続けて、その先に何があるのか。何もないだろ!! なぁ!! 最初に戻るが、私はこれを間違ってるとは思ってないと言うのも足枷になっている。自分の言葉で語れやしない、考える事もしない、定型文テンプレートの有象無象の塵積もったゴミが散乱してるのを見過ごしていたら、ダメになるだろ!! って思うから。でもどうしようも無い。だから自衛して、関わりを選んで、こうして日記みたいに書いているワケになる。
別に……違うんだよ。誰もを差っ引いて整えようやなんてしない。その先にあるのは勘違いとエゴの果てで、同族変わりやしないのだから。私はね、インターネットも群れる事も向いてないんですよ、本当は。でもインターネットを観る事が染み付き過ぎてるし、1人で生きるには脆弱すぎる体と心をしている。大きく矛盾してて、その上には石みたいに思考が積み重なってる。答えは無いんですよ。自分で納得をし、他者を傷つけない答えは……。


伽藍堂の胸に(10/7の雑記)

人は内側にいる
それから、これまでその内側にいたものの外側へ出る
人はからっぽな感じがする
なぜなら自分自身の内側にはなにもないかはだ
自分がいまその外側にいるものの内側に入り込もうと、ひとたび試みるやいなや
人はたちまち自分自身の内側に
──人がかつてその内側にいたところの
外側の向こうにあるあの内側のに──
入り込もうと試みるのだ
食べようとして、また食べられようとして
外側を内側に持とうとして、そして
外側の内側にいようとして
(中略)
人が内側にいるあいだは
外側の内側さえ外側であり
そして自分自身の内側には依然としてなにもないからだ
ほかのなにものも、これまで一度としてあったことがなく
そしてこれからもけっしてないだろう

(R.D.レイン著/みすゞ書房発刊「結ぼれ」より引用)

レインの詩の中にこのようなモノがある。遠回りで同じ事を何回も言ってるように感じるが、彼の詩はほぼ全部こんな感じだ。この詩は……私的に噛み砕くならその人そのモノが“存在する”場所、最奥ですらその場所は外側で、本当は何も有る事が無い場所であるという事を示している。詩の感じ方など千差万別十人十色なのでこれを見たアナタがどう感じるかは分からない。でも私はこの詩から“そうかもな”と言う興味や安心を抱いている。この興味安心が本当は毒だから良く無いのだが……と言う話は置いといて、最初に書いた話は言わばこの詩の状態に近いなと感じたワケです。自分のしている事、感じた事なのに全てそれを俯瞰的に見て冷笑したりニヒルに弄るだけの観客が私の外側に居る。思えば、これは昔からそうだった。例えば、がんばろうと思ってもそれを思っただけだとか、その気になっただけ、どうせすぐ終わる、前もそうやって失敗した……とそれを批判する誰かが即座にスポーンするワケです。私の頭の中で声を上げるな。軸で有る意識以外の意識がそう忙しく喚くな……。
人間って右脳と左脳でそれぞれ統合された意識があるらしいですよ。全体一つの意識があって、その意識を構成する2つの意識、その2つの意識を構成する5つ計10つの意識がある。そんな感じで。きっと私の中には、何者に慣れなかった果てが、誰かを腐して自慰行為するだけのボンクラが沢山居るのでしょう……。


そのような矮小な卍解など(10/10の雑記)

何故か今日はやたらと昔を思い出していた。別に面白い話も無い。過去話って誰が話しても一定の面白さは保証される(と思ってる)けどなんかそればっかりなのもつまらないよねってある。増えるモノじゃないし。大体に通じるけど面白さや良さってのは話す人自体が持つ情報に左右される事が多い。この話纏まらなくなってきたからやめるか。


死神を導く蝶の名に、何故“地獄”とついているのかを!(10/11の雑記)

なんかこう、自分の事を可愛いって思ってるキャラにまんま可愛いって言うの負けた気がしませか? ウマだったらカレンチャンとかもそう。だってそのままか、カワイ〜〜なんて言ったら彼女らのマーケティングにまんまと引っかかって掌の上で踊るようなもんですよ。それに、例えばウマ世界に私がモブオタクで居るとしてこんな偏屈で嫌味なヤツがカレンチャンかわヨ〜〜うひょひょwwwとか言ってたらお前、そんな安直な物とか嫌ったり本質を見ろとかクソ垂れる癖にそう言うのは好きなのかよって槍でグサッと刺されて市中引き回しの後に打ち首ですからね。
とにかく、安直にカワイイって言いたく無いプライドがあるのでした。



あたしリア充ながらバーチュアル(10/14の雑記)

よく私は「萌えキャラか?」とか「美少女ゲームが過ぎるだろ……」みたいな表現をしますが別にこれは悪口を言っているワケではない。これはなんか私の中でも微妙な感情を出力してるから明確な意味を持たないのですが、なんか可愛いかったり愛らしくはあるけどそれ、あまりにも我々に都合が良過ぎないか……? とかなんか面白過ぎないか……? って時に言葉として表すには140文字じゃ足りなかったり学不足で難しい時に出る(例文:コパノリッキーさんがコパって鳴くの、萌えキャラが過ぎるだろ……)
ちなみに例文の感情は本物です。

私は自分の事をかなり影響されやすい人間だと感じている。逆を張ろうとするのは一種のカウンターみたいな感じもある。気がする。なんというか、風潮や流れと言ったモノが強くなってしまうと途端に嫌だな……ってなっちゃう。例えば、公式でカップリングを明確に提示したりされたりすると「んん?」ってなっちゃう。それだけじゃなくファンとかが異常に持ち上げてたり、強い言葉を使ってたりすると「あー?」ってなってキレそうになる。なんか自分でもめちゃくちゃだし意味分からんな……とは思ってるんですけど、これ治すようにするのも意味わかんねーよなぁって。こう言うなんか自分の意識と言う曖昧な感情群の流れが解せないのが嫌だな。それ自体が解らない、と言う事は知っているが自分の中にあるモノぐらい管理していたい。それができないからこう精神病なんでしょう……ってそれはそう。だけどさ〜〜〜どうにかなってもいいじゃん!


“ここが地獄じゃあるめぇし”(10/19の雑記)


私は忘れる事を何より恐怖している気がする。と言うよりは忘れる事しかできなくなる事が怖い。自分から何かをしたり知りに行く事ができなくなり、ただ醜い言葉だけを連ねて忘れるだけの存在になる事が。肉体的な老い、と言うよりは人間の寿命切れで起きるような痴呆。認知症とかもそうですね。そしてそれらの解決策がなく、対処療法しかないのも怖いな。緩やかな死じゃんって思う。でも私は社会的に見たらそう言う生きてるだけの存在に変わり無いかもしれない。
たまに自分でも思うんだが、私は少々偏屈過ぎるし物事への敵対心や野暮なプライドが過ぎるんじゃないかと思う時がある。なんか……分かるけど良くはなくない? みたいな中途半端さ。不恰好に尖ったナイフみたいな。しかし、自分で言うのはなんだがそう言う感性や見方は安易に棄てるのは良くないよねとも思ってる。これに限らないけど、自分に関する大体の思考や行動に二つ以上の案や評価が同時に発生する。どちらの言い分も分かるから、どっちを取ればいいかは分からない。


ジェラピケ着こなせない方がショックでかかったな(10/24の雑記)

そう言えば、オンラインゲームは負けてブチギレて怒るような人の方が上手くなると言う言説がインターネットにはあるけど概ねそうだろうな〜って感じてる。味方にキレたりする分自分の動きを律せたりするだろうし、運に殺されても取り返そうとするんですから。私は自分が性格が攻撃的で口が悪いと自覚しているので、不快指数が溜まりそうになるとその場で即座にゲームを辞めるようにしてる。昔はそうでもなかったんですけど、今ではゲームを辞めても他にやれる事もあるから切り捨てるのが楽になったからというのもある。コンテンツ飽和時代ですからね。でも私は言う程手広くコンテンツに触れていない。他の事をやると言うよりネットの海に還ると言うのが正しいかもしれない。インターネット産まれの深海魚なので……。


・以上、約4000文字
なんだかんだこの時期も鬱々とした内容が多かった。本当に今は治ってきてる方なんだなと改めて実感。
2023年の7/30でこの雑記群は書き始めて1年を迎え、雑に計算すると約17万文字積み重ねた事になる。
すげ。文庫本2冊ぐらいできる。誰か出版とかしません?

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