東大生があばれ祭りに参加してみた!
宇出津あばれ祭は、石川県無形民謡文化財に指定されており、能登地方の夏祭りシーズンの幕開けを告げる重要なイベントとなっています。
(以下参考:あばれ祭り公式サイト)
由来と歴史
宇出津あばれ祭の起源は約350年前に遡ります。当時、この地に悪病が流行し、多くの人々が苦しんでいました。地域の住民たちは、京都の祇園社から牛頭天王を招請し、盛大な祭礼を始めました。すると、神霊と化した青蜂が現れ、悪疫病者を救ったと言われています。この出来事に感謝した地元の人々は、キリコ(切子灯篭)を担いで八坂神社へ詣でるようになり、これが宇出津あばれ祭の始まりとされています。
祭りの流れ
宇出津あばれ祭は二日間にわたって開催され、そのダイナミックなパフォーマンスと深い歴史が訪れる人々を魅了します。
初日には、地区ごとに作られた巨大な奉燈(キリコ)が「テテンコテンテン、テコテンテン」という太鼓の音に合わせ、「イヤサカヨッセ、サカヨッセ」と囃しながら、ひたすら練り回ります。この掛け声には、繁栄を願う意味が込められているそうです。
夜にはいやさか広場に設置された柱松明(ハシラタイマツ)と置松明(オキタイマツ)に火が灯され、キリコがその火粉を浴びながら乱舞する幻想的な光景が広がります。
二日目の朝、八坂神社から2基の神輿が出発し、町中を巡りながら厄を集めます。昼には梶川橋から神輿を川に投げ入れ、何度も行き来して厄を受け入れる儀式が行われます。夕方には神輿が梶川の上流に設置された柱松明のある清流に投げ入れられ、身を清める禊ぎが行われます。夜には神輿が海や火の中に投げ込まれ、勇壮なパフォーマンスが繰り広げられます。
最後に二日間渡御した神さまが境内の火の中で災いを焼き祓い、社殿にお還りになる最終行事が行われ、祭りはクライマックスを迎えます。
8期各自の感想
容赦なく降りかかる火の粉の熱さ、人々の情熱、そしてその全てを肌で感じる真夏の暑さ。本当に熱気溢れる体験でした。特に、人数が少ない中でも、何度も途中で運べなくなっても、そのたびに持ち直してキリコを先へと担ぎ続ける地域の方々との交流は胸を熱くさせました。そこには、この祭りをなんとしてでも「未来へ繋げたい」という強い思いが感じられました。
このような地域の人々の思いに触れられたことは、私にとって活動の原動力の一つとなり、能登の未来のために自分ができることを見つけていく決意を新たにする機会となりました。
大変な状況下での開催には多くの困難があったと存じますが、それにも関わらず、祭りに参加させていただき、心から感謝しています。そして、この素晴らしい伝統がこれからも続いていくことを強く願っています。私も能登の未来のために、少しでもお役に立てるよう、地域の皆さんとともに、能登の明るい未来を築いていきたいと思いました。(めぶ)
まず初めに、貴重な祭りに参加させていただける機会をいただけたこと、余所者の僕らを温かく受け入れてくれたこと、ありがとうございました。約3時間半ほど夜に神輿を担がせてもらったのはあまりにも貴重な体験でした。運動不足の身にはかなり堪えましたがあの独特な雰囲気の祭りの内側に入れてよかったです。
僕の中で一番印象に残っているのは、一緒にキリコを担いでいたご年配の方の、「こんな時だからこそ祭りをやらないといけない。うち(宇出津)は能登の祭りの始まりだから、うちがやればほかにもやろうというところが出てこれる。」というお話でした。地区ごとに非常に特色豊かな文化を持つ能登の人たちが持っている共通のアイデンティティのひとつがキリコなんだと思います。この状況の中でも祭りのために立ち上がったすべての人に心からの敬意を示したいです。自分自身にできることを探しながらこれから活動していければと思います。(らぎ)
8期リーダーののせばんです。先輩方に引き続きあばれ祭りに参加させていただいた際に感じたことなどをお伝えしたく存じます。
今回、あばれ祭りという能登町宇出津の人々にとっての神事であり、復興の狼煙である重要なお祭りに参加する機会をいただいたことに誠に感謝しております。
ご家族を亡くし、喪に服す中で今年はキリコには触れられないと語ってくださった方がいらっしゃいました。ライフラインすら満足に整わない中での祭りの開催に賛同できず参加を見送った方も、それでも子供たちに諦める経験をしてほしくないと一家で参加した方もいらっしゃいました。そんな中で開催されたあばれ祭りですが、この復興の1ページとなるお祭りに一人の人足として参加できたことをただただ嬉しく思います。
7月5日の夜、港の広場で目にした光景はその日の朝まで自分が東京にいたとは信じられないものでした。しかし、燃え盛る炎と火の粉が降りかかる中で最高の笑顔でキリコを担ぐ自分の写真をあとから見たその瞬間、自分はもうとっくに能登町の魅力に取り憑かれてしまっていたのだなと悟りました。悲鳴をあげる肩、感じたことのない痛みがする土踏まずに枯れてきた喉。初めて歩く道で、隣の知らないおじさん達と顔を付き合わせながら、全身全霊で生を実感していたことを覚えています。
美しくも恐ろしい能登の自然の最中に生きる人々の燃え滾る輝きに負けじと私も輝いていきたいという活力をもらいました。東京で机に向かって勉強していただけでは一生学べなかった貴重な経験になりました。そんな得難い経験をさせてもらったからこそ、経験したのみに終わらず今後の能登町への活動につなげていきたいと強く思います。(のせばん)
「あばれ祭りに参加するなら、燃えてもいい格好で来ること」と事前に言われたときは、いったいどんな激しい祭りなのだろうかと期待と不安が交錯していました。まだ、火災保険に加入していなかったからです。
いざ夜の宇出津に繰り出してみれば、その不安は汗と共に流れ落ち、期待に満たされていきました。どこからともなく聞こえてくる囃子と掛け声が、あちらこちらで響き合い、だんだんと大きくなります。町内会ごとに用意されたキリコに近づいてみると、見上げるほどの存在感に圧倒されます。ただの背が高い木組みではなく、神具らしくどこか洗練されていて、キリコごとの固有の台詞が勇ましく刻まれています。集まってくる町の人。足袋を今一度締め直すお兄さん、ラッパ飲みで酒を回す男衆、母に習ったという横笛でキリコを先導するお姉さん、キリコに乗せられて主役席を独占しているかと思いきや少し眠そうな子どもたち。キリコの下で一体となった人々の影は、少しずつ境界がぼやけて夜に溶けていくようでした。
笛の音に導かれて角を曲がると、町の中心に据えられたタイマツが見えてきます。大きい。キリコをゆうに超える高さもあるタイマツがバチバチと燃え盛り、その周りを、より一層大きな声と共にキリコたちが回り舞います。私たちのキリコも例外ではなくその渦に飲み込まれると、火の粉が降り注ぎ、タイマツに面した左半身は赤外線熱で焦がされていくようでした。身体が熱かったのはもちろんですが、それと同じくらい、人々の心が熱く燃えていたのだと思います。
タイマツのメラメラとした炎とキリコたちのゆらめく灯火が、普段は静かで真っ暗な宇出津の港を照らし出し、イヤサカヨッソイの掛け声が、町を抜けて山や海にまで響いていきます。年に一度の長いこの夜こそ、この町の本当の姿なのかもしれません。(かとぅー)
まずはじめに、今回全くをもって外部の人間であるにも関わらず、伝統的なお祭りであるあばれ祭りに快く受け入れてくださった能登のみなさまありがとうございました。8期のこうへいです。
あばれ祭りに参加する以前、私の中での「お祭り」とは、屋台が並び、神輿が通り、人々が賑やかでありつつも日常の中で行われるお祭りというものを想定していました。私自身が大学の学園祭にも携わっていたために、その印象が強かったのです。
しかし、あばれ祭りは私の今までの「お祭り」の概念にはなかった、激しくかつ、非日常的な、しかし人々が熱中できるようなお祭りでした。
まず拝見した神輿。担ぎ手が川に飛び込み、火の粉の舞うなか何度も何度も神輿を叩きつけ、また担ぐという様子を見た時、その迫力に呆気に取られました。そして担いだきりこ。座布団があるにも関わらず、今までないような力が方に加わり、肩に痛みを感じるほどの重みがあるにも関わらず、大きな掛け声と共に、町内一体となって進むキリコはとても迫力のあるものでした。正直、数日間あとが残るほどの重さでありながらも、このような非日常を感じることができたのは貴重な経験です。
しかし、ひとつ今回のあばれ祭りは今までのあばれ祭りとは違うであろう点が1点ありました。それは街並みの所々に被災の跡がいまだに残存していたことです。ガレージのブルーシートや剥がれた屋根が所々ある中、今回のあばれ祭りは行われていました。実際に役場の方のお話だと、今回のお祭りは被災した中でやるべきかどうかで賛否が分かれたそうです。その議論は置いといて、一人のお祭りに参加した身からして、そもそものお祭りの非日常さと、今回の地震の残酷な爪痕の介在は言葉に表せないような複雑な感情を抱きました。
とはいえ、やはりこのあばれ祭りがあるからこそ一体になった能登町を見て、たかが3日間だけのお祭りでありながらも、あばれ祭りは能登を一つにできる力がある祭りなのかなと思わずにはいられませんでした。(こうへい)
あばれ祭りへの参加も含めた、8期の現地活動の様子はこちらも!
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