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記事7:文章を書くことについてのあれこれ

休み明けの始動は、そこそこ成功した。
成功の秘訣は、何が成功で何が失敗か分からなくしておくことだ。特に失敗したのでないならば、成功と言っても差し支えない。

文章を書くリハビリとしてnoteを書き始めて、1週間が経ったらしい。違ったらごめんなさい。いつまで続くか分からないが、やれるところまでやってみる。日記だと思っているので、基本的には為にならない文章を書いていく。
そして何のためにリハビリを行なっているのか、ゴールはどこなのか、分からないけども書いていく。

文章を書くことでいうと、作文を小学校の廊下に貼られていたのを思い出す。学年で何人か、出来のいいものが貼られるというやつだ。
その作文には自分で絵も描いて添えなくてはならなくて、絵がうまい部門と文がうまい部門、「どちらもよくできたで賞」部門があった。もちろん明確にあったわけではないのだが、子供心に「あ、こいつは絵で評価されて貼られてんな」という作文がいくつかあったのを覚えている。

僕は絵の方はダメなので、たぶんそこそこ良い文を書いたのだろう。これまた子供心に、どんな作文を書けば大人たちが喜ぶのか、当時すでに分かっていたような気がする。
そんな世渡り術を持ったイヤな子供は大きくなり、数年後には気合いの入った学級日誌を書く高校生になっていた。これは大人が喜ぶからとかそういうんじゃなくて、当番のときにはもう好き勝手に書いていた。
ひらがなの「そ」は1画で書くやつと2画で書くやつのどっちが正しいか?みたいな、授業とはまったく関係ない考察とか。

が、これも当時の担任の国語教師には評判がよかった。高校時代は落ちこぼれていたので、先生に褒められたのはこの学級日誌のときぐらいだったかもしれない。
ちなみにその担任は日誌のコメントで、
「そ」は「曽」という漢字が元になっているので2画の方がルーツ的には正解かもしれない、と教えてくれた。

授業の内容はほぼ覚えていないけど、こういうことは覚えているものである。というか、こういう豆知識とか雑学の類ばかりが頭の中に残って大人になってしまった感がある。頭の中に知識のフィルターがあるとすれば、学問は液体で、そこに溶けている雑学だけがろ過されて残っている感じがする。
雑学部のある大学があったら、絶対受験していた。

STERUSS『白い三日月』が今日のヘッダー画像。

元々違うアルバムをヘッダーにしようと思っていて、一度はそのジャケを貼り付けて動画のリンクも貼り付けたのだが、急ハンドルだ。

今日書いた文を読み返したとき、ふと思い出した曲。『真夏のJAM』の一節
「続けることこそ勝負 保てリズム&ブルース 譲れないルーツ」

そうありてぇなぁ。そうありてぇよ。

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