10%しか力出してないでしょ?と言われて

先日、noteの記事を見た友人から、「10%しか力出してないでしょ?」と言われて、書き手としては非常に考えさせる言葉であった。

特に最近では脱力こそ本領発揮の真髄であると考えている。
それを思えば、私からすると力が抜けているのは非常に喜ばしいことなのであるけれど、読み手に「力を抜く」すなわち「手を抜いている」と捉えられてしまうのは少しちがうような気がしている。

この件に関しては2つのことが混在しているように思う。

  • 力まずに自然体で書こう

  • 手を抜いているのではないか

あとは好みか、本人が「全力を出してこそ真髄を発揮できる」という考えを持っているならば、私の言葉はすべて受け入れられないのであろう。

ひとまずはこの2つについて考察してみよう。


力まずに自然体で書こう

誤解が生じる表現であることは十分に承知しているので、丁寧に分解していきたい。

まずは、力むとは何か。

ここでは緊張が生じている状態とする。

たとえばメディアから依頼された記事を書こうとすれば、少なからず緊張は生じると思う。事実関係に相違がないか、自身の主張にブレがないか、関係各位への失礼がないか、誤字脱字チェックなどが該当すると思う。

緊張は、外部の力が働くことによって生じる傾向にある。
失敗への恐れ、自分への信頼がなくなることへの恐れ、人によって様々な緊張の癖のようなものがある。

「力まずに」書くとは、「失敗したって大丈夫。失敗によって私の存在価値が揺らぐことはない。安心して書いていい」といった状態が当てはまりそうだ。

それに加えて「自然体で」とは、緊張のない状態ということになる。自分の自然な状態を知らない人は、誰かに聞いてみるのもいい。リラックスしていて、身体が硬直していない状態だ。

「力まずに自然体で」はいつもの自分の状態に整うように身体の感じを探っていくことにもなるかもしれない。この点で課題となりうるのは、そうなろうと思うあまりに緊張する、ということだ。


手を抜いているのではないか

「テキトーでいい」とも違っていて、かつ投げやりのような感覚でしっかり抑えるところは抑えているような、矛盾が見え隠れする状態と考える。

表面だけなぞれば、テキトーにやっていると捉えかねないところもある。投げやりを「身を任せる」と表現すると印象が変わるかもしれない。テキトーを「柔軟に」などと言ってしまえば、「身を任せながら柔軟に文章を書く」となり、なんとなくテキトーで投げやりな感じはなくなってくる。

手を抜いているつもりはないのだけれど、それは意識的にそうなのであって、無意識では手を抜いているのかもしれないとも思う。
なにせ私のスタイルとして、書こうと思って書くというよりは気づいたら書いているのであり、頭で考えて書いている時はすぐに気づく。

まさに、身を任せながら柔軟に書いているつもりなのである。


過小評価している可能性

自分を過小評価している可能性が浮上している。

何を隠そう、私は自己肯定感と世間で言われているものが低い。
ただ、自尊心は高い。

自己肯定感が低いというとネガティブな印象を持たれそうであるが、私はさほど気にせずに生きてきた。妻も自己肯定感が低いとよく言っているし、言動の節々にその傾向が見られる。それでもお互いに前向きに、幸せに生きている。自己肯定感の高低はあまり気にしていないのだ。

(と言いつつ、私は小学生まで自己肯定の塊のように生きてきた。
小学生の卒業アルバムを見ると、おもしろい人1位、将来大物になりそうな人2位という大変名誉ある評価をいただいている。どこかで歯車が狂ったのではないかとは自負している。)

自己肯定感が低いことと、自分を過小評価していることはどうやら別ものなのではないか。

私の文章に価値があるかと問われると、さほど価値があるとは思えない。
つまりそういうことだ。

一方で、読者は増えている。つまらないものであればそもそも見られていないのではないか。

なんにせよ「あなたもっとやれるでしょ」と鞭を打たれることは名誉のあることだし、大きな気づきとなった。別に鼓舞して勢いをつけようと思わないし、より洗練されたものを提供しようとも思わないけれど、自分の伸びしろを信じつつ書いていきたいと思った。


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