60代と20代の狭間

ほとんど同じことを話した。
しかし受け取られかたも出てくる言葉もちがう。

はじめましての方と立て続けに会って思う。
振り返りが主体の人と、未来が主体の人では相手から受け取る言葉の感受、自分から発せられる言葉の選択が明らかにちがう。

見ている方向がちがうだけでこうもちがうのかと驚いた。過去、現在、未来、どこを見ながら話すのか。新しいものに対してわくわくするのか、あるいは過去と比べてしまうのか、このちがいは大きい。

経験がものをいう分野においては年を重ねるごとに代わりのいない存在となり得る。高齢者で60代以降にうまくいく、いかない人と分かれるのは、時代から授かった運としか言いようがない。

彼らはコミュニティをつくっていくという点では共通していたかもしれない。
ひとりは地域をつなぐハブとなり、事業をしている人たちを応援している。
もうひとりは誰かが孤独にならないための居場所をつくっている。

人が集まり活力がみなぎってくる点において共通しているが、元気が前提かそうでないかの差がある。

元気であることは表面的にはわかりづらい。
誰もが、元気がなくても元気っぽく見せる。
それでも私たちは相手を気遣いながら、「大丈夫」と言うその人に、「そうか」と返す。

静寂というコミュニケーションを交わしながら、お互いの気持ちを汲み取る。しかし思い込みを強くするわけでもなく、ほどほどに相手のよきタイミングを見ながら、見ないふりをする。

60代の方々は静寂コミュニケーションが得意そうであるが、印象として言いたいことを我慢しているようにも見える。時代のちがいを肌に染み込ませながら、口をつむいでなんとか生きている人もいる。怒りの雰囲気もある。

20代の方々からは言葉がどんどん溢れ出てくる。止まってしまったら自分の存在が消されてしまう恐怖から逃げるような、そんな印象だ。自分の主張があることが、どれだけ彼らを救っていることか。しかし主張が強すぎるとそれもまた存在を消される恐怖があり、この2つの揺らぎを行ったり来たりしながら、人間関係をどうにか保っている彼らを見ていると、なんだか切なくなるときがある。

特に、私と話しているときに一生懸命にLINEを返しているのを見て、そんなにすぐに返さなくてはいけないのかと聞いてみると、「話題に乗り遅れると取り返しがつかない」のだそうだ。
グループラインで置いていかれる程度で関係にヒビが入るような仲であれば、元より必要ない気がするが、彼らにとっては必要なことなのだ。

あえて偏見を持ちながら60代と20代の方について話してみた。
視点のちがいは時間のちがいからくること、そして互いが持つ場づくりやコミュニケーションにおける大切なものがどうやら異なることがわかった。

仕事以外で世代の異なる人との会話は、定期的に持ちたいところだ。

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