トトロに包まれて

個人はすでにその存在自体が素晴らしいのだけれど、自分のすごさに気づいている人は少ない。自分もそのひとりだ。

自分らしさを取り戻し本来自分が持っている力を発揮できたとき、驚愕の力となることがある。それを知りつつもうまくコントロールできていないのが正直なところだ。

貢献できることがあるのは幸せなことだ。お皿を運ぶ、家に来た人を招くといった一見シンプルなことも、自分に役割があることでうれしくなる。ささやかな貢献をさせてもらえるのは、ありがたいことだ。

人が自分の力を発揮するのも同じようなことではないだろうか。
つい好きなこと、やりたいこと、得意なことを探そうとしてしまう。それらが向けている矢印は、いつも自分である。実は追い求めているものとは、他人に貢献できることなのではないか。

貢献したくて仕方ないのだ。
貢献させてもらえたお礼を言いたいのだ。
自分だからこそ発揮できる力をもって、世界が少しでもよくなることを願っているのだ。

大小ではない。
規模は関係ない。
小さな貢献の積み重ねでも、人を救えることを知っている。
自分が自分の存在を承認し、力を発揮することを許し、愛をもって人と接することができたなら、その想いは必ず相手に届く。届けられていないとしたら、そもそも届ける気がないのかもしれない。

自分がここにいていいんだと思えること。
相手に身を委ねられる自分であること。
身を委ねられる相手と出会うきっかけをもらえること。
委ねさせてくれる相手に出会えること。
実際に委ねさせてもらえること。
それらがどれだけ幸せなことか。

自分はちっぽけなのである。
ちっぽけだから、支えられて生きていくのだ。
つい支えられていることを忘れてしまう。
感謝しかないはずなのに、
一般論として支えられていることを解釈しても、本当の意味で委ね、支えられている人がどれだけいることだろうか。

私はそうではなかった。
自分には素晴らしい仲間がいるのに、委ねることができないでいた。ただ繋がってもらえるだけでありがたいと、なぜかその先に進むことを拒んでいた。進んでしまえば仲が深まり、別れるときに傷つく恐れがある。

しかし本当にそうだろうか。
出会いにはタイミングがある。
ずっと続く関係もあれば、終わる関係もある。
どちらでもいいのだ。
どちらにしても、同じ世代で同じ場所、同じ時間に交差した事実に変わりはない。その尊さを全力で味わうことをしないのはもったいない。

確かに自分はここにいて、ここにいる時点ですでにまわりの人に貢献しているのである。お願いすることがあるならば、恩恵を受けるに値する人間なのである。甘えていいのだ。

ちっぽけな自分だからこそまわりの愛をもって輝くことができる。
その循環と輪廻がつくる世界こそ、自分が見たかった景色ではないだろうか。誰もが自分の能力を発揮して、生きる喜びに溢れる世界があるとしたら、今ある諸問題はどうなっていくだろう。

自分を認めること、そしてまわりに委ねることはすでに貢献である。
あわよくば能力を発揮できたならば、より貢献の幅が広がる。自分が豊かになる。他人が、社会が豊かになっていく。

トトロに包まれて、流れるように優しく、言葉たちが注がれてきた。


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