②ghostlegについて~中田嘘一郎の勝手なライナーノーツ~
(今回、三作品を上演するにあたり、そのうちにの一つ、「GST」という
物語は、このghostlegの曲をずっと聞きながら作ったものだ。そして、
8月にアルバムが晴れてリリースされたので、今回、会場でも売ってもらい、一人でも多くの人がこの音楽に触れてもらいたかった。
とか、なんとか思っていると、俺の知り合いのある男が、このghostlegのアルバムについて、なにか勝手なライナーのような長文を書きだし始めたので、それを今回掲載した。しかし、俺と同じくらい、彼のライナーには愛があふれている。それは、このアルバムのリリックが語る、この現在で必要な「意識」を描いてるからだと思う。事実、自分もそれがかなり助けになった。お暇なら、目を通してほしい。なにより、聞いてほしい。)
昨日戦争の夢をみたのは きっといつかを予言してるのさ!
今やほんとに身近に感じる その日を待ってる
(「戦争の夢」)
ライブで何十万人の人間をスタジアムに呼び、
人気映画の音楽を担当するバンドが「HINOMARU」という、
センスのかけらもないタイトルをつけていたのが数年前、
(元からあのバンドにセンスを感じたことは一度もないけど)
あれからか知らないが、日本は未曽有の狂った状態に突入している。
それは政治云々の話ではなく、「熱狂」と「憎しみ」が経済格差と日本古来の内的ひきこもりによって、
そしてそれがある種マグマだまりの余震が起こっているかのような年が、
今のところの2019年の感想で、
そんな中、私はghostlegのwaniwaveと秋葉原のルノアールにいた。
その時に彼はこう言った、気がする。
「waniwaveとしてやってた、「怒り」のようなものは、今、やってもなあと思ってますね。」
waniwaveがそのようなフィーリングを抱いていたのがいつかわからないが、やがて彼はニイマリコという女性vocalとともに、曲を制作する。昨年頃からその「ghostleg」と名付けられたプロジェクトは、bandcampで数曲をリリースしていた。
その中からは1曲、表題曲「幽霊の條件」のみが収録され、今年8月、
1stアルバム「₲#0$✞!f!© /!✞3r4©!3$(ゴースティフィック・リテラシーズ)」が発表となる。
リテラシーとはwikipediaによるとそういう意味だが、つまり、ghostlegは、
この「怒り」「憎しみ」「熱狂」が毒々しく渦巻く日本に対して、冷徹な「知」という勝負を仕掛けた、といえるだろう。
事実ここには、あらゆるフロンティアから一瞬自分を離し…それはまるで、
DVされている子供が自分を客観的に見るよう…にであるのかもしれないが、その現状を冷徹に刺し貫く。
これをできるアーティストが今日本で皆無であることは、
非常に問題であるし、だからこそ、このghostlegを聞くことは、急を要するのだ。
いつ、「主戦場」が見れなくなるのか、
いつ、「還願」がプレイできなくなるのか、
それと同じ危機感で聞いてもいい、そんな作品であるといえる。
しかし、理知的な二人は、かなり抽象的な言葉を使っているためぶっちゃけ発禁などの憂き目にはならない。どこかの芸術祭のように。だが、それに気づけないのは、悲しいことである。
サウンド的にも、waniwave曰く、新しい機材(maschineと思われる)
を購入したことにより、サウンドの幅がかなり、ソロでやってきたものとは変わってきた、とtwitterで語っていた。
更に、ECDを愛聴していたというニイマリコのヴォーカルも、最初はwaniwaveの声の領域に近い気がしていたが、
このアルバムでそれを突破し、「目明(Disclosure)」ではwaniwaveとのダブルヴォーカルも披露している。
1曲目の「戦争の夢」のイントロからして、ベースラインから始まる形でまるでバンドのようだと最初に思った記憶があり、
そこから、アジアンテイスト、いや、もっと言うと坂本龍一的なピアノ旋律に近いメロディが直撃する「幽霊になるとき」が、
聞くものの意識を高く持ち上げていく。
憶測だが、坂本龍一的なピアノ旋律をかなりwaniwaveは意識していたと思う。これは結構な頻度でこのアルバムの随所に顔を出す。
一方で、ソロよりもよりダンサブルなビートが散見され、
前述した「幽霊になるとき」もトラップの要素を発見するし、
「リテラル」は一瞬四つ打ちに、最終曲であり個人的には最も興奮した「Ghosting」の急展開はゼロ年代のニュー・エキセントリック
といわれたlate of the pierのようだ。その現代版でありnight slugsやnksiのようなモダンなダンスビートへの挑戦がある。
そして、打ち込みのみで展開されていく8曲分を占めるのも坂本龍一的ピアノの旋律だ。
何より、まだspotifyで歌詞が表示されないのはかなり惜しいが、
是非、歌詞に耳を預け、誰も寄せ付けずじっとリリックを聞いてほしい。
すべての表現がメディア化されてしまった今、何かから断絶することは、
本当に難しいが、その「孤独」をこのアルバムに一瞬あずける価値はある。60分、いや、一曲なら5分もいらない。
やや韻律から逃れた相対性理論のような、しかもここ最近「天声ジングル」のような切迫した危機感を引き継ぎながら、
「幽霊」という立ち位置からモノを言うリリックは、
あらゆる活動からの加担を避けるような、ワンボタンでRTやシェアのボタンを推すことをためらわせる、そんな意志がある。
この2019年に同じことを言ったのは、唯一、
KH(Four tetの別名義と言われている)の「only human」のリリックだった。
「youre so afraid of what people might say So please dont do it」
快楽性の高い、やや硬質でクリック気味のテクノに甘い女性ヴォーカルでありながら、「それをしないでくれ」という言葉が、最後に告げられる。
twitterのRT機能を発明したエンジニアは、この機能をとてつもなく後悔しているという。子供に銃を与えるようなものだ、と。
まるで、ルワンダの子供に、AKを渡してしまうようなものか。
そう思うと俺は伊藤計劃の「Indifference engine」という短編を思い出す。
伊藤計劃が死んでもう10年がたとうとしているが、彼は「虐殺の文法」によって内戦状態になる世界を描いた。
最終的に、それが僕ら先進国の人間のすぐ近くにやってくるとも。
あるいは「ハーモニー」と名付けられた別の作品で、あらゆる安全の果てに「意識」を手放す世界を描いた。
彼の描いたディストピアが、にじり寄ってきているのがこの2019年だ。
今、何か、徒党や連帯によって不平等や不均衡を打ち砕く大切さがわかっているのに、その恐怖を知る、優しく知恵のあるものは、
異様な熱気を帯びたアクティビストに力負けしていく。その中で、いまだ「知」によって前進するという意志こそが、
このアルバムの中核になる。その意味で、二人は、狂っているかのようで徹底的に冷めていた時期のパンクロッカーに近い佇まいなのかもしれない。
プリティ・ヴェイカントだと歌ったジョン・ライドン。
放蕩のようで冷め切った詩学をぶち込んだ、
「Down in albion」を上梓した頃のピート・ドーハティ。
このアルバムを聴くたびに僕は思い出すだろう。
熱狂の奥に冷めた知識があったと。
それが連帯とはいわず、夜の星のように弱くだがいくつか煌いたと。
これからの未来がどうなろうとも、だ。
この曲はアルバム版のnew takeでアーメンブレイクを挿入され、鬱血したようにより激しくアルバムでは後半を彩る。この曲がnot in serviceの舞台でどう作用するのかはわからない。だが、どんな手を使っても、このアルバムを宣伝しようとした村岡の戦法だろう。この痛切ともいえる歌詞。
syrup16gが「COPY」というこの日本の不出世のアルバムを出した時、「あれはビルの屋上にいるようなアルバムだった」と語っていた。
(次の「Coup d'etat」ではそのビルから降りた、と続けたわけだが)
このアルバムも、その屋上の景色を見るようなアルバムだ。
「最新」の「熱狂」ではない。だが、ここまで、出来過ぎた程、
「熱狂」した世界に疲れた人にとっては特効の薬となる。
世界の裏側へようこそ。君はたったひとりだ。高笑いしてあげるといい。
(中田嘘一郎)
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