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諸行は無常って、自分で言ったのに何も分かっていない。

何にもならない。

全員がわかっていて全員が言わないことを、ある人は口にした。

0を1にすることは誰でもできる。だけどそれを続けていくことが難しい。

これもある人が口にした。

軽音サークルをやり終えて、数年経ってやっと自分で感じることができるようなことをその人はすぐに言った。数歩先のことをすぐに感じることができるそいつが羨ましい。


カネコアヤノのバンドから本村拓磨が去った。
このことについて俺の私観を。とても歪んだ考えであることを自覚しているが、書く。結論らしいものも特にない。

wind paradeで見た演奏が最後だった。その時俺はこう感じていた。以下は帰ってきて数日以内に書いた感想だ。

音がデカすぎる。
前で聴いていて普通に辛かった。
本村くんが五弦ベースを使っており、ローをぶん回していて非常に気持ちよさそうだった反面、バンドサウンドを支える役割が以前より増えていて辛そうだった。

当たり前だが、カネコアヤノのバンドは4人体制で、各々の出す音がしっかり個性を持っている。そのうち1人が変わるとそれは前のものとは違うものになる。だから、1人が変わると1/4が変わるのではなく、全てが変わる。Bobのリズムが抜けたら、その分今までの曲はBobの穴を埋めるための演奏が必要になる。誰が入ろうと。Bobはコーラスも担っていた。その分も本村拓磨が担っていた。リズムを打ち出すパートである以上、意識していなくてもそれは起こる。
辛いことだ。
カネコアヤノの今までの音を鳴らすために無理してやっていたように聴こえた。

もちろん新しい風が吹くことは素敵なことだ。それを受け入れることもできた。wind paradeも最後の曲が終わる頃には俺も大きな歓声と拍手を送ることができた。メンバーが変わることがネガティブな要素だけではないことを俺は知っている。

wind parade以降の演奏を見ていないからなんとも言えないが、もし本村拓磨がカネコアヤノのライブであの日のような演奏を続けていたのなら、それは心が痛むことだ。俺には演奏を成り立たせるための演奏に見えてしまったから。

昨年末、ゆうらん船で彼の演奏を見た際はまるで違う演奏をしていた。グルーヴがあり、ベースとしての仕事をしていることは当たり前だが、何より彼が伸びやかに、名一杯楽しそうに演奏していた。数年前見たカネコアヤノで見た姿だった。

そもそも本村拓磨がカネコアヤノを見て始まったあのバンド形態。彼がこのようにして去ることはもうこれからから彼の音を否定することになる。バンドの決断は受け入れて音を飲み込むことはできる。ただ、どうも俺は人と音を切り離せるタイプではないようで。
誰が不倫した、誰が暴行した、誰が不誠実な、迷惑なことをした。バンドに不和をもたらした。そんなこと知ったこっちゃない。バンドがそれを踏まえて演奏する決断をしたならば、それを受け止めて鳴らすことができる。しかしカネコアヤノのバンドは、本村拓磨はそれを選ばなかったのだろう。どうなのだろうか。
バンドがそれを選んだなら、リスナーの俺はそれをただ見ているしかない。ここから彼らを見るかどうかは俺も知ったこっちゃない。

アーティストの去就について外野がどうこう言うのはナンセンスだ。分かっている。そして、ここに書き込む以上、ここに書かれた俺の文字はその外野になる。分かっている。だけど、だけど思ってしまったし、字に起こしたくなったから書いてしまった。このまま上げておく。誰かに見られることは少ない。分かっている。自意識過剰でナンセンスだと分かっているが、ここに残す。これが俺の、この数時間考え込んでしまったこと。

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