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鏡像段階と葬式の共通点

ラカンの鏡像段階は人の生の根底に下のような視座をもたらす。

鏡像段階は(鏡であれ、親や他人からの接触であれ)他をして自らを知ることであり、鏡に映る私を私として「見立てて」そこに「自我」を手に入れても、「私」の根源は「私ならざるもの」によって担保されており、「私」の原点は「私の内部にいない」ということである。

この考えを葬式を通して死を理解するという行為に当てはめると相似形の受け取りが出来る。

葬式は、他の死から自分の死を受け止めているので、棺桶にたたずむ遺体を私として「見立てて」そこに「自らの死」を手に入れても、「私の死」の根源は「私ならざるもの」によって証明されており、「私の死」の原点は、「私の内部にいない」ということになる。

「私の死は私の内部にはない」だって私は生きているのだから。
と反論するのであれば、それなれば、「私には死がない」ということであり、それに反論することはできなかろう。

いずれにしても、私の「生も死も」他から与えられたものなのだ

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