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私たちは人を殺しすぎた

突然驚かせるようなタイトルでごめんなさい。
自分の言葉で思いを表現し、それが誰かの目に留まって、それを待っていてくれる人がいる。そういう人に私もなりたくて短歌という形で投稿していたのですが、今回は少し文章を綴ってみたいと思います。

2023年7月11日の日記を少し編集して、公開します。

12日、りゅうちぇるさんの訃報を知った。
ネットでは、女性ホルモンを打った影響で不安定になったからではないか、と自死の原因を推測するようなコメントや、ジェンダーを理由に父親としての役割を果たせないというのは逃げではないかといった憶測が書き込まれていて、亡くなった後も追い詰める「死体蹴り」といった言葉がTwitterでトレド入りしていた。私の友人も、彼女のnoteで「戦後の沖縄を語れる人として、ジェンダーの固定概念に新しい変化をもたらしてくれる人として、日本に必要な人だった」「でも、自死が彼/彼女が最も楽になれる方法だったなら、その選択も責められるものではない」と語っていた。

私たちは多くの人を殺しすぎだ、と、この衝撃の知らせを受けて、思った。
芸能の世界とか、多くの人に見られて勝手に評価される立場の人の自死が本当に多い、と体感しているのは私だけではないはずだ。死に追いやられた人たちは、自分が世界から消えることで何かが変われば、とかいう将来を考える余裕はなかっただろうけど、そうはいっても本当に何も変われていない。

人はもっと脆いものだと、私たちは知らなければならない。もちろん誰も感情からは逃れられなくて、自分の中に生まれた感情を否定することはできない。どんな感想、意見を持つかは自由だろう。だけど、それを言葉にしたり、ましてや本人に届くような形で発信するのは話が違う。間違っているとはっきり言いたい。自分一人が何をしたって無力で、何の影響も与えないと思うか?そんなわけがない。現実的に考えて、私たちは一人の言葉によっても傷つけられるのだから。

間接的な攻撃は、やっている側は痛みが少なくて、自覚もしていないかもしれない。だけどされた側は、誰だか分からない人から攻撃されている怖さ、芸能人という立場から言い返せないもどかしさ、それによって弱っていく心…たくさん抱えることになる。
大人な判断を、しようよ

私は元々りゅうちぇるのファンだったわけでもなくて、正直、今も詳しくはよくわからない。でも、亡くなってからりゅうちぇるのYouTubeとか、コラボしていた人のYouTubeやSNSを見ていて、本当に素敵な人だったのだと感じた。りゅうちぇるの「父親という役割に縛られたくない」っていう言葉は、「父親の役割から逃れたい」という意味ではなくて「父親母親というジェンダー的な区分に捕らわれたくない」っていうことだったんだな、と今ならわかる。メディアが取り上げる記事の見出しだけ見ていたら、「子どもがいるなら責任もって育てなよ」「ぺこちゃんはそんなりゅうちぇるも受け入れていてすごい」と、短絡的に誤解していたかもしれない。だけど今は、同性婚も認められていない日本では婚姻関係を解消するのが家族にとって良いアンサーだったんだなと分かる。

全てを理解しているわけでは到底ないけれど、みんな結局知らないだけなんじゃないの、と思う。知らないのに、嫌って、貶して、でもこっちは匿名で無責任で、ずるい。無口な相手に向かって好きなように”自分の感想”ぶちまけてそのまま。汚い。醜い。

私はもう言葉が凶器になることを忘れたくないし、汚い自分にならないように、発信する前にちゃんと考えたい。
そして、愛ある言葉、感謝は逆にもっとちゃんと伝えていかなければいけない、と思った。あなたの存在で笑顔になれて、ただ笑っていてくれるだけでうれしい、っていう人がいるんだよ、ということを死ぬ前に分かっていてほしいから。

りゅうちぇる個人の問題ではなくて、この社会の規範や雰囲気が彼/彼女を絶望させた。国の法律や政策にも原因があって、一人で変えられるものではない。だけど自分の、一人一人の意識が変わることで身近な人を守れる砦になれるかもしれない、と思います。まだ自分の中でも答えが出ていないけど、発する前に冷静に、言葉を選んで、そして愛を伝えられる人でありたいと私は思います。

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