見出し画像

「101匹ゾンビちゃん大炎上」、そして翻訳者が感じる「繋がりの多幸感」

本記事では僕が翻訳を担当した「Left 4 Dead」というタイトルから、思い出深い実績テキスト「101匹ゾンビちゃん大炎上」、そして翻訳者が感じる「繋がりの多幸感」についてお話ししてみたいと思います。

タイトルの概要を先に記しておくと、本作は先日リリースされた「Back 4 Blood」のご先祖様にあたるゾンビ系サバイバルシューターで、2008年にValve社がPC/Xbox 360向けに発売されました。敵の出現位置が毎回違う、非対称対戦(人間VS特殊ゾンビ)などの要素を備えた今見ても独創的なゲームでした。開発スタジオTurtle Rock Studiosは「Portal」、「Left 4 Dead」、最近は「Back 4 Blood」を作った会社。タイトルを見るだけでユニークなゲーム体験を提供する会社なんだなとわかります。

このプロジェクトに携わった時の僕は翻訳会社の社員だったのですが、雇われの身ながらも即座にこれは凄いゲームになるぞと確信したのを覚えています。気合が入り、翻訳開始にあたりゾンビ映画を観るなど万全の準備をしたのも良い思い出です。

翻訳が始まり、血と胆汁にまみれたセリフたち(このゲームでは気を抜くと緑色の胆汁まみれになるんです)のニュアンスをしっかり届けようと推敲を重ねたのも大変懐かしく思い出されます。ゾンビの群れを意味する「They」の訳語に「ヤツら」を当てるまで延々悩んだり(奴らか?やつらか?いや、ヤツらだ!)、やたらと悪態をつくキャラクターたちに「クソ」以外の訳語をつけようともがいたり、必ずゾンビではなく「感染者」という用語で統一したりと楽しい日々。ゲーム自体に惚れ込んでいたので苦労も楽しむことができました。

やがてセリフとシステムテキストの翻訳が終わり、実機に組み込んでのプレイテストも佳境に差しかかったころ…新しいテキストが届きました。Xbox360の実績用テキストです。…きたか。
洋ゲー実績は(今でも)英語圏ネタを盛り込んだものがあり、そういう場合はそのまま訳しても日本人には意味が分からないものが時々あります。普段ならものすごく時間がかかるのでちょっと暗い気持ちになるのですが、この時はゲームに心底惚れ込んでいてワクワクしていたと記憶しています。そしてやる気に加えて納期が厳しかったこともあり、僕はこれを自分でゼロから翻訳することにします(通常はフリーランスの方に一時翻訳してもらい、社内でそれを編集します)。

さて、この「101 Cremations」を分解してみると、Cremationの意味は「火葬」。101は単純な数字の可能性と、「入門コース」の意味が考えられます。ただし今回の場合はしっかり開発チームから参照元の提供があり、元ネタは映画「101 Dalmatians」、「101匹わんちゃん」だと分かりました。クリメイションとダルメシァンのダジャレです。

しかし翻訳という作業は不思議なもので、時にこれだという表現が自然と頭に浮かびます。僕の場合はこの時がそうで、見た瞬間にこれは「101匹ゾンビちゃん大炎上」だと思いました。壮大な苦労話などがあれば話も盛り上がるのですが、本件に限ってはゼロです。ネタが分かった瞬間、今まで一度も聞いたことのない表現なのに、これしかない!という確信があったんです。即採用し、納品・組み込みテストを経て「Left 4 Dead」は無事リリースされました。

それでは本題、翻訳者が感じる「繋がりの多幸感」について。
意訳というのは尖っているほど他者の評価が気になってしまうもので(僕だけでしょうか?)、当時などはリリース後にオンライン掲示板などを執拗にチェックしていました。今ならばTwitterでしょうが、当時はまだ一般的じゃなかったんです。

そして当時賑わっていたニコニコ動画に実績だけを紹介する動画が上がったので恐る恐る見に行くと…評判が良い!

特に訳語がするりと「降りてきた」101匹ゾンビちゃんは笑ってくれた人もいて、多幸感と呼んで差し支えない感覚を味わいました。意図がしっかり通じた、ここに笑ってくれた人がいる、やったぜ、嬉しいなと。

実はしばらくの間、僕はこれを単純な承認欲求の反応だと思っていました。「自分の仕事が誰かに認められた!」というやつです。しかしそれから13年の間に何度も思い返すうちに違うのではないかと感じるようになり、改めて何度も当時の感情と向き合った結果、どうやらこれは(少なくとも大部分が)顔も知らない他人との繋がりが生まれたことに対する多幸感だったのだと思い至り、ようやく納得しました。よくわからない?そうですよね。ちょっと補足させてください。

僕はこれ、大好きな漫画を友人に勧めてドハマリしてくれた時の感情が一番近いように感じるのですが、ゲーム翻訳者と遊んだゲーマーが知り合いである確率は一般的に非常に低いですし、そのためゲーム翻訳者はプレイヤーに干渉できないので、両ケースでは「距離」が全然違います。ゲーマーはあくまで自由意志で購入タイトルを選んでおり、翻訳者は納品後何もできないので。

オリジナル版ゲーム開発者とゲーマーの関係にはプレイヤーとの交換日記みたいな側面があると僕は考えるのですが、ゲーム翻訳にも同じ側面があるんですよね。一方的に書いたものが、時間や距離を超えて相手に渡り、読んだ相手も反応を返す。時間、距離、仲介者など色んなもので隔てられているのに意志が伝わる。そういう類の嬉しさです。

ただオリジナル版開発者と翻訳者で違うのは、翻訳者もまた読み手であるというところでしょう。ゲームに込められた意志は開発者のものであり、絶対に翻訳者のものではありません。翻訳者はゲーマーと同じ読者なんです。
しかし翻訳者はオリジナル版開発者と同様、ゲーマーと「時間、距離、仲介者など色んなもので隔てられて」います。おそらく魔法はそこにあるのでしょう。

現在の僕はゲーム本体の翻訳を離れeスポーツ系の翻訳ばかりしていますが、やはりそこでも圧倒的な多幸感を得られるのはオーディエンスとの共感が生じる瞬間です。だよな!そうそう!お前とは旨い酒が飲めそうだ!そうやって僕は日々暮らしています。幸せだぜ。

以上、記憶を振り返りながら翻訳者の喜びについて少し書かせてもらいました。少しでもお楽しみいただけたなら幸いです。

僕はイエス・キリストの誕生日に特に思い入れはありませんが、これをお読みくださった皆さんが素敵なホリデーシーズンを迎えられることはやっぱり祈っています。それではよい師走を、そして(ポリティカル・コレクトネスに則り)Happy holiday!



※なおこのNoteは載せる場所に迷った文章を上げる場所になっているため、時折ランダムな文章が出てくるだけなのでフォローは非推奨です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?