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「試し行動」はどうしてめっちゃダメなのか

試し行動の話をしよう。この世から試し行動をなくすために。

試し行動概論

小学校の先生がやるアレ

この世で一番わかりやすい試し行動となると、小学校の先生がやるアレになるのだろう。あなたの学校にもいたのではなかろうか。「もう授業しない!」と言って職員室にこもり、しばらくしてから「なんで誰も謝りに来ないの?」という変な先生。

参考:九月の先生コント「臨時教師の恐怖

なんだったんだあれ。マジでなんだったんだ。意味わからなさ過ぎてめっちゃ怖かった。多くの人が経験しドン引きする、試し行動のベストセラーである。早く法律で禁止しろ。残すべきじゃない伝統もあるんだよ。あれ嫌すぎるから。

あの先生、本当に馬鹿だし変だし怖いしかわいそうだった。子どもの僕はマジで引いた。マジで引いた。自分で帰っといて、もう一回こっち来るのなんなんだよ。変過ぎる。フリオチとしてもう真逆過ぎて怖い。

仮にさ、「ごめんなのび太、このおもちゃは4人用なんだ」と言ったスネ夫が、直後に「のび太、なんで僕と遊ばないんだ?」って言い出したら怖すぎるだろ。アンパンマンが「僕の顔を食べて」って言って、食べた直後に「なんで食べるの?」って言ったら怖いだろ。もうわかんないんだよ。怖すぎるもん。不安になるもん。それと同じことしてるんだよ。あの先生。

「なんで誰も謝りに来ないの?」じゃないよ。皆どうしていいか分からないんだよ。何を、なぜ、どれくらいの熱量で謝ればいいのか、正解が誰にも分からない、だから謝らないんだよ。謝れないんだよ。

あんな意味不明な姿を一度でも見せたら、勘のいいガキから順番にその先生を舐め腐るに決まっているのに、そんなことも想像せずそうしていたのだろう。馬鹿すぎる。ダメすぎる。本当によくない。この記事を読んでいる学校教員の皆さん、どうかはあれだけはやらないであげて。

やる側にさえ得がない

ここまでの話でわかるように、試し行動はなんてったってよくない。なんせ、他人に迷惑や負荷をかけるし、そのうえやる側にも得がないからだ。本当によくない。どちらかといえば、やる側に得がないことが致命的だ。

人に迷惑をかけるなら、せめて自分は得してほしい。スピード違反とか、強盗とか、横領とか、詐欺とか、めっちゃダメだよ、めっちゃダメだけど、やった人が得してるのはギリ分かる。

だからなんだろう、理解はできるのよ。例えば担任の先生が学校の予算から横領していたとするじゃない?めっちゃダメだよ、めっちゃダメだけど、「ああ、何か欲しかったのかな」とか「緊急のお金だったのかな」とか「浪費癖があったのかな」とか、色々と説明をつける方法がある。理由によっては「ダメだけど、分かる」くらいのラインまで到達できる可能性もある。

しかし、試し行動はそうならない。そもそも、やることに得がないからだ。だからどうやっても理解ができない。倫理的によくないのみならず、目的合理性の観点からみても馬鹿なのである。そんなことはやらない方がいい。

それでも割とみんなやる

そしてこんなこと、僕が言わなくても世間のみんな分かっている。人間関係全般において、試し行動はよくないものとされている。よい風潮だ。しかしそれでも、なおも試し行動を実行に移す人は後を絶たない。割と多くの人がやる。なんでだよ。

まあ、仕方がないのかも。世の中、馬鹿も変な奴も怖い奴もかわいそうな奴も結構いる。結構いるというか、みんな状況次第でそのどれかに当てはまったり、抜け出したりを繰り返して生きている。僕もあなたも、ときどき馬鹿だったり変な奴だったり怖い奴だったりかわいそうな奴だったりするわけだ。そういうとき、バグって試し行動に出ちゃうこともある・あっただろう。

だからこの記事がある。注意喚起だ。この記事では、試し行動の何がよくないか、試し行動をする人間がいかに愚かかについて書いていこうと思う。この記事を読んだあなたに「試し行動はやめておこう」と決意させることが目標だ。心のブレーキを外付けするための記事である。

根本的に、試し行動は二つの意味でよくない。一つ目に関係性がフェアでなくなること、二つ目にどうせまともに試せなどしないことである。

第一の問題:関係性のフェアじゃなさ

一方が見かけの上で偉くなってしまう

「試し行動」の抱える第一の問題点は、関係性がフェアでなくなることにある。一方が一方を試すとき、片方が見かけの上で偉くなってしまうのだ。

試し行動は「試す」という言葉の通り、「正解」と「評価」を持っている。小学校の例でいうところ、「先生に謝りにいく」が「正解」に当たる。それをするかしないかで、試した側からの「評価」が下される。

そういう構図は、現実の対等な人間関係とは大きくかけ離れている。試す側が、見かけ上あまりにも偉すぎるからだ。人間同士が明確に「試す側」と「試される側」に分かれる場面は、入社面接やスピーチコンテストなど、ごく限られたものしかない。

しかもそれらは極めて明確な手続きと、明確な役割分担のもとに行われるものであり、日常生活からふわっと急に同意なく始まるものではない。試し行動は、それが行われることも、それが始まることも、全くフェアではないのだ。

偉くなること自体に目的があるかもしれない

まあぶっちゃけ、試し行動をする奴の中には、試し行動を通じて「自分の方が偉く、相手をコントロールする側である」と認識したい奴はいるのだろう。フェアではないルールを敷ける側というのは、偉いからだ。

しかしまあ、相手より上に立ちたいと思うことも、相手より上に立つための方法が「ジャッジする側になること」だと思うことも、本当にセンスがない。人間のことを知らなさ過ぎる。審判の方が大谷翔平より上だと思う野球ファンは一人でもいるのか。ちゃんとプレーヤーとして人間関係をやれ。

その偉さもしょせん見かけの上でしかない

さて、ここで重要なのは、試し行動をして見かけの上で偉くなれたとして、実際に偉くなれるわけではないということだ。

「試し行動」をしたところで、強い側には立てない。なんなら、試し行動をすることは「相手に正解を出してほしいとお願いする側になる」ということでもある。その意味で試し行動は相手への依存であり、自立の放棄でさえある。

だからこそあの先生は「なんで謝りに来ないの?」と言ってしまったのだ。「なんで謝りに来ないの?」(=謝りに来い)と言うことは、実質的には試しでもなんでもない。ただのお願いである。「試せてすらない」のだ。

お願いする側が偉い側なわけはない。なんなら相手より下になってしまう場合さえある。だったら初めから回りくどく試すようなツラを作ってスカさないで、素直にお願いした方がいい。絶対にいい。そっちの方が受け入れられやすい。お願いする人の方がよっぽどかわいらしく、愛しやすく、親しみやすい。

第二の問題:そもそも人を試すのが難しい

人間を試すことは難しすぎる

試し行動が持つ二つ目の問題点は、「人間を正確に試すことが難しい」ということだ。京大を出てる僕が言うんだから間違いない。いい大学を出てる奴は別に賢いわけじゃない。俺は元素記号の周期表を知らん。日本の将来もわからん。フレンチのテーブルマナーも知らん。でも、俺たちは入試のこと自体はめっちゃくちゃ知っている。その確かな経験に照らして言えば、試験問題を作るのは、試験問題を解くよりはるかに難しい。人をちゃんと試すなんてハナから無理ゲーなのである。

大学やら国家試験やらの学力試験でも、しょっちゅう出題ミスだ、採点基準がおかしいだ、試験の公平性がどうだと問題が起こる。一年かけて専門家たちが準備する試験でもそうなのだ。それも「英語や数学の知識」を問うような、答えをちゃんと作れそうな問題でそうなのだ。

それをなんだ、一個人が?正確に?人間を?試す?馬鹿にすんな、舐めんな、おい京大の英語の和文英訳の採点基準って結局なんだったんだよ?マジで無理なんだから。ふざけるんじゃないよ。試し行動なんかできないんだよ。人には。「相手が自分を大切にしているかどうか」だとか「相手が義理堅いかどうか」だとか「相手が本気でやっているかどうか」だとか、そんなわけのわからないものをちゃんと試せるわけがないんだよ。

しかも試し行動を作題・出題する人間なんて、どうせ馬鹿か変な奴か怖い奴かかわいそうな奴なんだ。無理だね。絶対に無理だね。精度が高いわけがない。どうせ破綻する。

破綻の例①「正解」がおかしい

いくつか、試し行動が破綻するパターンについて列挙しておこう。

まず、想定している「正解」がイカレ過ぎてて常人には思いつかなさ過ぎる、というパターンがある。試し行動をする奴なんてどうせたいして客観性もない。答えを変なところに置いてしまうエラーが想定される。

「職員室に戻る!」と言って戻っていった先生への正解が、まさか「ごめんなさい、もう一回授業してください」だとは思わないだろう。なんか怒らせちゃったな、そっとしておこう、って思うだろ。正解が置いてある場所が変だと、回答者がそれを追えない。

破綻の例②「問題」がおかしい

次に、「正解」へと導くための「問題」が機能していないパターンがある。試験問題というのは、相手が正解を出せるように、丁寧に誘導をし、条件を絞り込み、出来る限り別解の可能性をなくして作られる。そういう作業をするには俯瞰的なまなざしだとか、回答者の立場を考えることだとかが求められる。

しかし、俯瞰できる奴や他人の立場を考えられる奴なら試し行動なんかするわけがないので、どうせそもそもの問題も変なのだ。

例えば小学校の先生のケースで考えると、「学校は授業をするところであり、授業を先生が放棄してはいけないから、先生は授業をしたいししなければならないという前提がある」みたいなことが、先生から見たときには問題の大前提になっているのだ。

んなもん、生徒からしたら知ったこっちゃない。だけど、先生からしてみればこれも「問題文に書いてある」のである。学校ってそういう場所だから。

もちろんこれはむっちゃ馬鹿である。学校という場への理解度とか、その場における責任の配分とか、様々な要素が見落とされてまくっていて、端的に無理がある。なんだろう、「自分の感覚は他人も持っている感覚である」という無邪気な信頼、というか自他境界の曖昧なえげつない未熟さが怖気持ち悪い。

破綻の例③「採点」がおかしい

最期に、試し行動へのアンサーとして相手がとった振る舞いの意味を正しく認識できず、「採点」がめちゃくちゃになるパターンがある。相手が「正解」に近い答えを出してくれたところで、あるいは相手なりに精一杯考えて振舞ったところで、その答案を見る目がめちゃくちゃだったら何にもならない。

小学校の例でいうところ、クラスの子たちが「先生が帰ってくるまで自習して反省しておこう」とか思ったとする。それって状況に対する反応としてはかなり正解に近いはずなのだけど、先生からしたら想像していた答えではないし、求めていたのものでもないからムキイイとなって怒ってしまう、的なアレである。もう本当に馬鹿すぎる。他者への想像力がないくせに担任を受け持つな。

結論

試し行動なんかすんな

以上のように、試し行動とは、隅から隅まで感覚がまともであり、おまけに思慮や想像力もあるような奴じゃないと成立させられない、人間関係における超高等技術なのだ。

しかもそうであるがゆえ、思慮がある奴はリスクを考えて手を出さない。身の程知らずな変な奴だけが手を出す。結果、試し行動は常にまったく機能せず、全員が損するクソイベントを量産するのだ。

いや、まあ、もしも「人がどういうときにどういう振る舞いをするか」を高い精度で想像できて、それを相手に失礼にならないような方法でさりげなく試せる人がいたならば、「試し行動」も効果的に使えるのかもしれない。

でも、そんなことができる人は試し行動以外の方法を選べる。結局、試し行動なんか、自他の境界がぶっ壊れてて想像力が死んでて頭も性格も悪い奴(あるいは、一時的にそうなっている奴)しかやらないのだ。

ここまで読んだからには、どうかあなたには試し行動をしないで生きていってほしい。また、他者に試し行動をされたときには、この記事の内容を思い出して、「ああ、相手がめっちゃ馬鹿か変な奴か怖い奴かかわいそうな奴なんだな」と考える余裕を持ってほしい。

ただでさえジャッジの目線が飛び交う社会なのだ。余計なストレスのかかる試し行動と距離を取りながら、サバイブしていこう。

これだけ丁寧に記事を書いたのだから、あなたが試し行動をするわけはないよね?

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