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「負けず嫌い」を摩耗させてやりたい

ずっと疑問だった。「負けず嫌い」の「ず」は何なんだろう。

普通に考えたら、否定を表す「ず」しかない感じがする。でも、否定を表す「ず」だとしたら、おかしい。「負けないことが嫌い」という意味になる。それではニュアンスが真逆だ。

「負けないことが嫌い」ということは「勝つことが嫌い」ということ。元の言葉からは到底考えられない、上昇志向皆無の自堕落な言葉、あるいは勝ち過ぎておかしくなった奴の世迷い事になってしまう。

このことをうっすら頭の片隅に置いておき、かといって調べることもせずにだらだらと日々を過ごしていた。その間にも「負けず嫌い」の「ず」は意味不明な音としてそこに存在していた。

そしてある日、僕はとうとう重い腰を上げ調べてみた。

あっけなく真相が判明した。「負けず嫌い」の「ず」は否定の「ず」ではなく、推量や意志を表す助動詞の「むず」に由来していたのだ。

なるほど、そういうことか。「む・むず」の「むず」なんだ。意味としては婉曲か何かなんだろう。「負けるようなことが嫌い」くらいの意味なんだろう。現代ではほとんど使われなくなったとされる「むず」が、「負けず嫌い」には残っていたわけだ。

このとき、僕は納得すると同時に感心した。とっくに使われなくなった「むず」の「ず」が残っている。これは凄い。なにせ、言葉それ自体が時代の摩耗に対して抵抗している。まさに「負けず嫌い」な言葉ではないか。

ず、よく残ったね。
ず、偉いよ。

そう思いつつも、僕にはサディスティックな感情もある。「負けず嫌い」の由来を調べたあの日以来、僕は定期的に「負けず嫌い」を「負けう嫌い」と発音することにしている。

言葉を、摩耗させてやりたいのだ。

言葉を摩耗させ、変えてやるのだ。その「ず」を消し去ってやるのだ。古語のくせに残りやがって。いけすかない。

「負けむず嫌い」→「負けず嫌い」と変化してきた言葉は、どうせこの後で「負けず嫌い」→「負けう嫌い」→「負け嫌い」と変化していく。どうせそうだ。言葉は絶対に変わっていく。

21世紀までは「ず」が残ったかもしれない。でも、22世紀はどうだ、23世紀はどうだ、24世紀はどうだ。遠い未来で、どうせこの「ず」は消えているんだ。いや、他ならぬ俺が消すんだ。消し去ってやるんだ。

僕が「負けう嫌い」と連呼するたびに、その時が近づいてくる。じりじりと未来が、変化が、屈折が迫って来る。

「負けず嫌い」は戦々恐々としているに違いない。

いっそのこと「負け嫌い」まで一発で変えてくれよ、と思っているかもしれない。そりゃそうだ。気持ちはわかる。「負けう嫌い」が一番ダサいもんな。「負けう嫌い」が一番負けそうだもんな。でも、だからこそお前を「負けう嫌い」と呼ぶのだ。それがお前にとって、一番の敗北だからだ。

「負け嫌い」までいってしまえば、逆にスタイリッシュでかっこよくなってしまう。言葉が洗練され尽くして、「到達」した感じになる。「到達」する前の、さなぎの段階が一番ダサい。

負けう嫌い、そうだ、お前は負けう嫌いになるんだ。どうせいつかなるんだ。どうせいつか、お前は負けう嫌いになるんだ。負けう嫌い、負けう嫌い、負けう嫌い。

負けず嫌い?贅沢な名前だね。今からおまえの名前は負けう嫌いだよ!

おい、どうだ、どんな気持ちだ? 今どんな気持ちだ? 悔しいか? 悔しいな。悔しいに決まってるよ。だってお前、負けう嫌いだもんな?

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