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英語学習とインターネットの相関教育システム論 ─「ミーム英語」から「英語ミーム」へ─


相関教育システム論?

出身大学の話はよく聞かれるけれど、そんなことよりもっと細かい専攻の話をしたい。ちょっと専攻の話をさせてくれ。

学生時代、僕が所属していたコースは「相関教育システム論系」である。したがって、履歴書のうえで僕の専攻は「相関教育システム論」となる。相関教育システム論、聞き慣れない言葉だろう。

それがどういう意味なのか、実は僕も知らない。僕に限った話でもない。在籍していた誰も知らなかった。なんせ、そんな名前の学問がないのだ。何を指すのかがマジでわからない。世の中のものなんて結構なんだって相関するし、結構なんだってシステムだろう。実体が見えにくい。

たぶん複数の研究室の微妙な力関係に配慮し、全てにギリギリ被る名称にしようとした結果生まれた、ようわからん専攻名なんだろうと思う。大学あるあるなんだろうな。

その「相関教育システム論系」なる言葉は、狭いコミュニティの中では当たり前のように飛び交っていた。略語はよりによって「相関」である。なんで一般名詞のところで区切るんだよ。「相シス」とかにしておけよ。

「あれ、九月って相関やっけ?」
「うん、俺は相関だよ」
「え、相関感ないけどな」
「そうかな? 自分ではだいぶ相関だと思うよ」

実際にあったであろう会話

結果、こんな会話が発生してしまう。めっちゃ怖い。

「俺は相関だよ」って言葉、なんかめっちゃ怖い。「相関」なんて何かと何かの間にしか生まれないだろ。「俺は相関だよ」ってどういう意味なんだよ。俺に実体がなさそうすぎる。もしくは仏教的世界観なんだろうか。理解が及ばないって。

「自分ではだいぶ相関だと思うよ」も結構怖い。「相関」って思うかどうかじゃないだろ。データサイエンス的というか、きちんと実証されるべき言葉だろ。絶対に「相シス」って略すべきだったと今でも思う。

同期の研究者、藤村

そんな「相関」の同期に、教育社会学の研究者がいる。藤村という。研究室もゼミもまるっと同じであり、たまに二人で串カツを食べるくらいには仲が良かった。大学院修士課程在籍時、僕が奇声をあげながら大学を去りお笑い芸人「九月」となって以降もちまちまとした交流が続いている。

今後もちまちまと交流を続けていけば、いつかきっとLOFTかラテラルかどこかでトークイベントも出来るはずだ。関西方面のイベンターの皆さん、いつでもお声掛け下さい。僕たちは仕上がっています。

藤村の研究テーマは幅広いものだし、今どこに力点があるのかを僕はあんまり把握していないが、ともかく彼は「構文」という言葉の使われ方について詳しい。例えばこういう論文がある。

むろん僕より藤村のほうが説明は上手いので、ちゃんとしたものが読みたい人は今すぐ上記の論文を見てほしい。以降、「構文」についてこの記事を読むにおいて必要なぶんの説明をする。

英語学習における「構文」

これは要するに、高校英語/大学受験英語の学習において、「構文」という言葉がどういう意味において使われるか、という話である。

ざっくりと言えば、「構文」には「お決まりの暗記すべきフレーズ」という意味と、「文構造そのもの」という意味の二通りがある。

従来、教科書などにおいて「構文」は前者の意味で用いられてきた。「so 原因 that 結果」とか、「It is 形容詞 for 人 to 動詞」とか、きっと皆さんも習ったことがあるのではないかと思う。黒板に先生がでかでかと書くアレ。若き日の僕ら、みんな赤ペンでメモったんではなかろうか。

そういった暗記中心の学習方法/指導方法に、批判を提出したのが伊藤和夫だった。彼は駿台予備校の伝説の英語講師である。すなわち、英語を体系的に理解するうえでは、大量の「構文」を丸暗記することよりも、むしろ文法上の規則をシステマチックに理解し、運用する必要があるというのだ。ここに後者の「構文」が生まれる。伊藤和夫によって始められた「構文主義」の運動である。

暗記したフレーズへのはめ込みに頼るのではなく、文法のシステムに基づいて、「ここに主語が来たならば動詞があるはずだ、するとこの名詞は目的語になるはずだ、するとこの形容詞は次の名詞にかかるしかない、するとこの名詞は補語になる、するとこの前置詞句が修飾しているのは前の名詞であり…」というように、整合性を確かめながら英文を解釈していく読解法である。

だいぶ理屈っぽいけれど、なんせ理屈っぽいぶん、慣れたら誰にでも使いこなせるのがいいところである。

伊藤和夫は「構文主義」を通じて、多くの人が英文を読めるようになる手立てを準備しようとしていた。従来の「大量の暗記をベースに、慣れでどうにかしろ」という学習方法は、意外と勘のいい奴にしか使えない。ハウツーの部分、頭の使い方の部分をきちんと記述しようとしたのだった。いいねえ。そういう、方法論を定式化してくれる人って大事だよねえ。

インターネットにおける「構文」

さて、大きく話が変わる。昨今のインターネット上の日本語運用において、「構文」という語はめっちゃ前者の意味で用いられている。めっちゃ前者である。

ネットにおける「構文」とは、大まかな意味と用法を暗記して、みんなで改変したりなぞったりするためのデータベースである。ほとんどミームと言ってもいい。構文主義の影もない。まあ仕方がない。イーロン・マスクは駿台予備校出身じゃない。Xに「構文主義」の人間はいない。

「ミーム英語」の教室

このことから引き戻して考えるに、従来の「構文」中心の英語学習には、「ミーム英語」みたいなところがあったのかなと思う。丸暗記によって、英語の中で使えるミームを増やしていこう、みたいな。

そういえば、僕の出身高校では「英語の簡単な例文を500文暗記しよう」みたいな課題があった。高一、高二の二年間にわたって継続されたタスクで、結構たいへんだった。例文を暗記することで、英文読解や英作文の助けになる、みたいなことが主張されていた。まるっと「ミーム英語」である。あんまし必要性がわからなかったので、僕はまるっとサボり散らかした。

「英作文は英借文。知ってる英文表現を使って、置き換えながら書いてみてね〜」みたいな指導もあった。構文になぞらえて何かを言うだけ、古き良きTwitterである。ほとんどパクツイと言ってもいい。そうか、あの授業はパクツイを教えていたのか。

むろん、ミーム英語に批判的な先生もいた。「ただ闇雲に例文を覚えさせるだけじゃなくて、必要な説明をしたい」なんて言って、授業前に例文の紹介をしてくれたりなんかした。あれは結構ありがたかった。

とはいえ結局、その後には例文の暗記テストが待っている。生徒の多くは文字の並びを覚えることでいっぱいいっぱいだった。豊かなはずの第二外国語学習はだいぶ無機質な、暗記でしかないプロセスへと乾き果ててしまっていた。ほとんど苦行だった。

結果、僕たちのほとんどは、例文の意味なんぞついに考えることなく卒業した。きっと全国各地で行われていた英語の授業も似たようなものだったのだろう。「構文」の丸暗記をベースとした「ミーム英語」は、「勉強している感」が得られることから根強く人気なのである。

「英語ミーム」が生まれていく

そういえば、"out of ~"とか"as soon as"みたいなどこか語呂のいい慣用表現は、ネットミーム化していじられてる対象になっている。「ミーム英語」的な授業が「英語ミーム」を生み出す。マッチポンプというか、海賊版というか。

お笑いの世界にも、この手の英語の「構文」を用いたボケ方は古くからある。そして結構ウケる。場面とフレーズによっては、「もじらずとも言うだけでウケる」みたいなこともある。「ああ、あれ覚えさせられたよね!」みたいな、あるあるフレーズとして機能するのだ。

これこそ、全国各地で「ミーム英語」的な指導が行われていた証左なのではないかと思う。あたかも紫式部や兼好法師や夏目漱石の一節をもじるかのごとく、受験英語の「構文」がもじられていく。みんな知っているから。

ミームに抗えと言いたいが

僕はふだん、「ミームに抗って自分の言葉を使わなきゃいけないんだ!!」「意地でも自分の目と耳を信じろ!!」「ミームに毒される前に走れ!!」みたいなことを言うことが多い。基本スタンスとしてアンチミームである。だってなんてったって、みんなが同じ言葉を使っているのがなんかずっと嫌なのだ。

でも、この件についてばかりは、そんなことを言っても仕方ない。だってもともとの英語の授業に原因があるんだから。「習った英語を忘れろ!」なんて言えない。退屈な青春だって青春だ。大事にしたほうがいい。

いっそ「全国の先生たちよ、自分の言葉を使って英語を教えろ!」と言いたいところだけど、それもまた難しい。先生たちも大変だろうから。

そういうわけで、英語のミームについてのみ、僕は少しだけ許容範囲を広げることとする。「ミームを聞くやいなや嫌な顔をする」みたいなことをしないようにする。なんてったって物事には様々な側面があるから、振る舞いもそれに応じて変えるべきなのだ。そうか、やっぱり俺は相関だったのか。


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