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雨 Ⅰ

雨の日が好き。
湿った空気が澱み始めると、彼に逢えるチャンスだ。

Tシャツにジーンズ、足元にはhavaianasのサンダル。
雨が降っていてもいつも同じ格好。
足元が濡れていても気にする様子はない。

少しクセのある、柔らかそうな髪の毛をフワフワと遊ばせて。広い背中には大きめのリュック。

斜め向こうから、顔を盗み見るとくっきりとした
二重瞼が長めの前髪から覗いた。
澄んだ真っ黒な瞳に、長い睫毛。美しく揃った眉。
スッキリとした鼻筋に、ぽってりと膨らんだ赤い唇。

口元とアゴにはうっすらと髭が生えている。

私が初めて彼を見かけたのは、ストリートピアノが弾ける高層ビルの小さなスペース。

雨の日は、聴いている人もまばら。
そんな環境を知ってか、彼は必ず雨の日に現れる。

同じビルに勤める平凡なOLの私が、彼のピアノを初めて聴いたのは6月のある雨の日だ。
オフィスの同僚たちの目を盗み、このスペースに来た。
ゆっくりと休みたい…

高層ビルの外をぼんやり眺めていると
美しいピアノのイントロが聴こえてきた。

ジャスティンビーバーの「sorry」

Sorry
ごめんね
Yeah, I know that I let you down
がっかりさせたのは分かってるよ
Is it too late to say I’m sorry now?
ごめんねって言うにはもう遅すぎるかな?
ジャスティン ビーバー「sorry」

ふと、数ヶ月前に別れた恋人を思い出した。
同棲みたいにズルズルとし過ぎたのが悪かった。
まさか他の女の子と逢ってたなんて…何度も謝られても
私の心は動かなかった。

「はあ。嫌な事、思い出しちゃった」
ピアノの方に目をやると視線を感じた。

ピアノを弾き終わった彼と目が合った気がしたが
直ぐに視線を逸らされたので、何となく居心地が悪い。

「ナニあれ?」
恋人の事を思い出していたので、イライラが加速する。
男の子なんて、みんな嘘つきでえげつない。

「大体、こんな昼間からピアノ弾きに来てるなんて。
どんだけ暇なのよ。あの人。仕事してんのかな?
いくつくらいなんだろう…」
誰も居ないエレベーターの中で独り言がだんだん大きくなる。

さっきまで、イライラしていたのに何だか変だ。
階が下がる度にクールダウンしていき、それとは別の感情が顔を出す。

ホントはあの真っ黒い瞳に、もっと見られたかった。
見つめ合いたかったともう1人の自分が呟く。

名前も知らない
雨の日のピアニストに。

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