見出し画像

くさったさかなの目をしてる(07)

[最初から読む]
[一つ前を読む]

 各々共有すべき情報の吐き出しが終わって仕事に取り掛かろうとすると、ヤマキから「ウルシバラさん、本当にインフルなんですか?」と尋ねられたが、「熱がまだ下がりません。すいません」という今朝方届いたメール以外にネタもない。緊急事態宣言が明けて、天井から個人個人の机の間に垂らされた薄い透明のビニール、端っこを触りながら、「誰も発症していないのだから、大丈夫でしょ」と返した。ヤマキは、「病気だらけですね」「こっちにだけしわ寄せがくるの、おかしくないですか?」「ちゃんとPCR受けたのかなー」と愚痴っていたが、私もキタも無視を貫いたことで、ようやく口を閉じ、これで集中できると安心したのも束の間、滅多なことでは寄り付かない部長があらわれて、始業時間から間もないにもかかわらず、「コーヒー、どう?」と私を誘う。不自然さに、「陽性」「感染」「クラスター」という言葉が頭に浮かんだが、表情を変えないように努めながら私は「いいですね」と席を立ち、キタは「気をつけて」と言葉を送り、ヤマキは「お土産、よろしく」とおどけた。


 小刻みに震える狭いエレベーターの庫内にて、部長はスーツのポケットからリモコンキーを取り出し、「運転できる?」と聞いてきたが、「すいません、ペーパードライバーで、自信はないです」と答える。
「結婚は?」
「してないです」
「彼女は?」
 思わず、「今はいません」と言いそうになる自分を抑え込んで、「いないです」と言い切ると、「がんばらないと」と儀礼的に励まされる。


 外に出てビルの裏に回ると、買い換える度に社内で「趣味が悪い」と評される社長の車、今は真っ赤なプリウスで、その隣に停まっているライトバンに乗り込む。去年から社用車は禁煙となったはずだが、車体にヤニが染み込んでしまったのか、社命など意に介さない社員がいるのか、タバコの匂いを鼻が拾ってしまう。かつては「喫煙室の牢名主」とまで呼ばれた部長は、臭いが気になったのか、それとも密閉された車内を恐れてか、運転席の窓を、わずかに開ける。


 「すいません、運転、お願いして」と謝ったが返事はなく、代わりに、「サワムラ君、どうだった? 具合、悪そうだった?」と聞かれる。「最初は良かったんですが、最近は、まぁ、そうですね、つらそうです」と言うと、「ふーん」と気のない応答の後に、「実はさ、サワムラ君の事で、駅から呼び出しがあってね」と加えたので、「もしかして飛び込んだんですか?」と驚くと、「そこまでは、いってないんだけど」と、大袈裟にため息をついてから、事の顛末を語った。


 朝のラッシュ時、幾両もの電車が駆け込むように到着しては忙しなく出発していく中、乗降客からの怪訝な白眼視や邪魔者扱いのタックルに動じることなく最前列に立ち続ける男のことは多くの駅員たちが注視しており、何度か、「どちらまで行かれるのですか?」「次の電車は、もう直ぐですよ」「分からないことがあったら、何でも聞いて下さいね」と声掛けもしていたが、「会社です」「えぇ、そうですね」「大丈夫です、いつも乗っている電車なので」などと答えておきながら、ドアの開いた車内を睨むようにして見るだけ、一向に足は動かず、このままでは最悪の事態も想定されると危惧した駅のスタッフたちは、「いったん休みましょう」とベンチに座ることを勧めると、「かまわないで下さい」「問題ありません」「ピンピンしてます」と強く拒絶、大声を張り上げたわけではなかったが、一方的、かつ、頑なな態度に、むしろ危機感を強め、数人で囲み、「まっ、ちょっとだけ」「とりあえず、ねっ、とりあえず」「少しです、少し」と移動させようとしたところ、「あなたちには関係ないでしょ」と暴れ出したので、羽交い締めにされたそうだ。


 「そんな元気があるなら、仕事してくれれば、いいのにねー」とのボヤキに、「そうですね」と返すしかない。


 せせこましい道を抜けて大通りに出ると車のスピードが上がり、運転席側の、わずかに開かれた隙間から風が入り込んで、部長の薄い頭髪をもてあそぶ。少し前なら、帰社後に、「我慢するのに苦労したよ」と職場で笑い話にしただろうが、緊急事態宣言下での在宅勤務、時間を持て余して丁寧に掃除をしていると、枕カバーに多くの髪の毛が付着していることに気が付き、明日は我が身と寂しくなる。


 「こうして駅から呼び出しを受けるのは、二回目だよ。前回は、ほら、カザモリ君の下にいた、がっちりとした、柔道の国体にも出場したことがある子、覚えている? あの子がさ、中学生だったか高校生だったかを盗撮したとか、しないとかでもめて。携帯にはスカートの中を撮ったという動画が残っていたんだけど、本人は、たまたま電源が入っていただけだって言うし、あっちは、そんなことないって言うし。その場は、どうにか謝って収めたんだけど、それから数ヶ月したら、電車内をパトロールしていた私服警官に現場をおさえられて、もう逃げようがなくて。まったく、バレた時にちゃんと懲りて、止めればよかったのに」と言い、「あぁーあ」と嘆息して後、「最近の若い子は、なんだかねー、よく分かんないね?」と投げ掛けられる。私は部長側に置かれているのか、それともサワムラや元柔道家と一緒くたにされているのか。どう答えていいのか分からないので、「盗撮で捕まった彼は、クビになったんですか?」と話しをそらす。


「そりゃねー、かわいそうだけど、そうするしかないよねー。仕事は出来る子だったから、カザモリ君は、残念がっていたよ」
 「そうですか、なかなか、うまくいきませんね」とテキトウに応じる。
「仕事は、どう?」
「サワムラですか?」
「いやいや、全体的に」
 ウルシバラの病欠まで部長が把握しているとは思えず、わざわざここで訴えるのも嫌味たらしいと、「どこも同じ大変ですけど、どうにかこうにかやってます」と当たり障りのない返事をすると、「そうだねー、どこも大変だよねー」と同じく当たり障りのない感想を聞かされる。話題が尽きたのか、私とは会話が盛り上がらないと痛感したのか、部長はラジオのボリュームを上げる。


 「ちょっとすいません」と小声で謝ってから携帯を取り出してメールを確認して後、運転席からは見られないように、わずかに画面を傾けて地図アプリを起動した。部長が車での移動を選んだのは、サワムラを病院か自宅まで送り届けるつもりなのだろうから、駅の到着時間を調べたところで無意味であることは分かっていたが、しないではいられなかった。午前中で片が付けば助かるが、そううまくいくものだろうか? 終電を覚悟、土曜出勤は既に想定内、しかし予定はなくとも日曜は休みたいものだが、さて。


 渋滞に巻き込まれることはなかったが、駅近くの駐車場を探し始めると、デカデカと看板に書かれた数字を見ては、「高いな」「嘘でしょ」「ボッタクリだよ」と難癖をつけてグルグルと小道を彷徨う。どうせ会社に請求するのに数百円を惜しむ思考が理解できず、上司として経費削減の範を示しているならポケットマネーで支払うような度量を見せて欲しい、決して太っ腹な人間ではないが「私が出しましょうか?」と言ってやりたかったが、「いくらなんでも、おかしいよね?」という不満に対して、「そうですね」と同意、左右を見回し、「あっちにも、看板ありましたよ?」と部長の納得できる駐車場探しを手伝う。車は目的の駅から着々と離れていき、次の駅がみるみる近づき、一度は通り過ぎた駐車場が、周辺の最安値であると認めざる得なかったが、それでも部長は、「単なる場所貸しなのに、いい商売だよ」と文句を口にした。駅まで十五分ほど歩く羽目になり、その間、いくつもの駐車場を素通りし、「いい運動になるね」とか言い出さないことを祈ったが、部長も後悔したのか、無言で歩き続けた。


 最初に目にした出入り口から階段を下り、頭髪のとっ散らかった部長から「うちの社員が、ご迷惑をお掛けしました」と謝られて、自動改札機を窓口から眺めていた若い駅員は面食らった。脇から、「今日、ホームで暴れたというか、そちら様にご迷惑をお掛けした男がいると思うのですが、それが、うちの社員でして」と説明すると合点が行ったらしく、「少々お待ち下さい」と近くの受話器を取り上げて、「あっ、どうも、改札です」と取り次いでくれた。ほどなくして、「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたドアが開いて、初老の男性から、「どうぞどうぞ」と、笑顔で招き入れられた。障害物のない広々した駅構内とは違って、ドアの内側では机と椅子が窮屈に詰め込まれており、壁一面に備え付けられた棚には、資料や本がびっしりと並んでいる。書類を読み、ノートパソコンにかじりつき、談笑している、外では見せない表情をあらわにした制帽を脱いだ駅員たちを横目に、狭い通路を歩いていると、鏡の中に入り込んでしまったかのような違和感を覚える。


 初老の駅員に案内された小部屋は、他とはパーテーションで仕切られており、真ん中には化粧板が一部剥がれてしまっている会議用机が置かれ、二人の男がパイプ椅子に座っている。私たちの入室と同時に、携帯をいじっていたパーカー姿の男は立ち上がり、床の上に置かれていた黒いボディバッグを肩から掛けると、「それじゃ、僕は、これで」と出て行った。サワムラは、私たちに向かって小さく頭を下げた。もしかしたら、マスクの中で、「すいません」とか何かを口にしたのかもしれないが、線路が近いらしく電車が走り去る騒音で聞こえなかった。


 「ありがとね」と小走りで去って行くパーカーの背中に感謝を述べた初老の駅員は、「それじゃ、連れて行ってもらって結構なのですが、その前に、ちょっとだけ、よろしいですか?」とパーテーションの向こうへ歩き出してしまうので、部長は、「僕が行ってくるから、見張ってて」と私に告げた。ちょうど電車も走っておらず、見張り役の任命はサワムラにも聞こえたはず、バツが悪くて、「まったく部長も、ねぇ」と、目元だけとはいえ、苦笑いを見せつけるしかなかった。「仕事は、こっちで、どうにかするから。とりあえず、ゆっくり休んでよ」と声を掛けたが、反応はない。


 手つかずの湯呑と椅子に深く腰掛けてうなだれたサワムラを見詰め続けるのも気詰まりで、黒板に書かれた謎の文字列を読み、記念として残しているらしい古びた駅の看板を観察、「持ち出し禁止」という紙の貼られた金属製の機器を眺め、腕組みをして、まるで興味津々といった風体で壁に沿って歩いていると、「どうせ死ねばいいのにって、思っているでしょ?」と、ぶっきら棒に話し掛けられた。振り向いて、「そんなこと思ってないよ」とフォローする前に、彼は、「母が電話で話しているのを聞いたんですよ」と、そっと言葉を置くように言った。


 「育て方が悪かった」「もっと強い子に出来たはず」「こういう子に生んでしまった私に問題があったのだ」と自己卑下をすることで、私に電話を切らせない粘り腰を何度も体験したが、そんなことを言われたことはなく、しかし、「君の聞き間違いだよ。親が、そんなことを言うわけなだろ」と否定出来ないのは、親しい知人や親戚に、息子の死を願う悲壮感を演出することで相手の同情を買うくらいのことは、あの母親ならやりそうであり、それでいて単なる演技に収まるものではなく、彼の病因が自らにあるのではないだろうかという疑義の吐露と同じように、ほんの数%であっても全く願望がないわけではなく、さらには、息子の全快を夢見ているからこその母親による捨鉢な告白なのだと思う。


 「あまえるんじゃねーよ」という罵声を飲み込んで、「仕事は、こっちで、どうにかするから。とりあえず、ゆっくり休んでよ」と声を絞り出したが、皮肉な響きがこもってしまい、サワムラはチラリと私を見てから、壁に顔を向けた。どうせ自分は理解されないのだ、という失望を無邪気に表明する私と同世代の男に、血管が浮かび上がるような憎悪を覚える。お前が死のうが生きようが、勝手にしてくれ。生きたいなら生きろ、死にたいなら死ね、それだけ。もし盗撮でもしたいなら、すればいいだろう。ただし、見つからないようにやってくれ。いや、見つかったって、いい。でも、こんな風に私を巻き込まないでくれ。私は君に期待などしていないのだから、君も私に期待しないでくれ。私は、早く帰って仕事がしたい、それだけだ。いや、嘘だ。別にしたいわけではない。義務? 責任? そんなもんじゃない。仕事は仕事だから仕事なので仕事だ、それだけだ。


 立っているのも辛い気怠さを覚えたが、空いているパイプ椅子に座る気にはなれない。図らずしも部長に言われたように意固地に顔を背けるサワムラを見張っている形となり、職場に来ることは出来なくても床屋には行くことは出来るのだろうかと疑いたくなるくらいにキレイに整えられた襟足と、やはり一日中部屋に籠もっていることしか出来ないのかもしれないと信じるに足る白いうなじを見ていると、「今回は外れだった」「人数合わせでも、アレはないだろう」と声高に女性の品評する若い声が近づいて来たが、パーテンションの向こうにて無言で対峙する部外者に驚き、「あっ、すいません」と謝ると、急いで去って行った。


[次を読む]

[最初から読む]
[一つ前を読む]

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?