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くさったさかなの目をしてる(03)

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 駅に降りた大量の人々は、地下通路から街路樹の茂る歩道に出ると陸続と剥離していき、都庁を過ぎて中央公園に至ると、大分まばらになる。園の外周に沿って歩き、大通りを渡って細い路地に入ると、小ぢんまりとしたビルが居並んでいる。その中で一際のっぽな建物、一階のラーメン屋は三ヶ月前にオープンしたばかり、その前に入っていた喫茶店は一年、パスタ屋は半年しか保たず、多くの飲食店がやむにやまれずテイクアウトを始めなくてはいけないという悪条件では最短記録の更新は当然と目されていたが、どこぞの有名店の暖簾分けらしく繁盛している。テナントの安定は会社としては喜ばしいことなのだろうが、換気扇から立ち上る臭いのおかげで、若い女子社員は、ファブリーズをこれみよがしにデスクに置いている。ビルの脇にある通用口から入り、「感染防止に手洗いをしましょう」というポスターの貼られたドアの前でエレベーターを待っていると、さっそく悩ましい臭いが鼻をくすぐる。


 毎年、決算が見えてくると、ビル売却の噂が社内に流れる。業界全体として右肩下がり、競合他社が、華やかなりし時代に建てた自社ビルを次々と売り払って貸ビルに引っ越していく中、我が社だけが一階を貸し出したのみ。建物の老朽化は喫緊の問題で、特に冷暖房は深刻、夏、窓際は汗だくなのに、送風口の近くに座らされている人間は長袖でも具合が悪くなる始末。冬は冬で、昼になっても部屋は暖かくならず、雑務を任せられている契約社員のサカガミは、嫌味のように手の甲だけをおおう手袋をして、キーボードを叩いている。機械を一新する計画もあったが、現状で資金を投下する余裕はなく、それでいながら銀行を介してIT系の会社から土地を買いたいという申し出は、直ぐに断ったそうだ。後輩のヤマキは、「次に大きい地震が来たら、社員全員、死ぬんじゃねーの?」と口にしているが、ビルの側面にへばりつく非常階段の錆び具合からすると、あながち冗談だと切り捨てられない。業績が劇的に上向くことを期待するのは、宝くじで億万長者になることを夢想するようなもの、最早、出来るだけ高値で売り払うことくらいしか手は残されていないはずだが、毎年毎年、決算を前にして、「もう限界だろう」という社員の危惧は、経営陣から無視され続けているうちに、オリンピックは延期されて地価は下がり始めた。


 一年前に帰郷した際、久しぶりに会った親戚から、「都庁の近くで働いているんでしょ? すごいわねー」と褒められて、苦笑いするしかなかった。しかし、理詰めで考えるよりも、そういう感覚こそが、この地に居座る理由なのかもしれない。どの駅からも均等に遠いという立地であっても、最上階の一室、ビルとビルと隙間から都庁のタワーが垣間見えることに、私より二つ年下、東京生まれ東京育ちの現社長は、存外、価値を見出しているのかもしれないが、今もまだ、地価とは無関係に、こだわりを持ち続けているのだろうか?


 ガタガタと不穏な音を立てるエレベーターに乗り込むと、後何回、この建物に通わなくてはいけないのだろうと考えてしまう。人が羨むような資格もなく、この年になってしまえば転職も難しい。会社には、つぶれないでいて欲しいものだと願いながらも、自分が定年まで勤め上げるイメージもない。五輪が延期になり、非常事態宣言が出て、自らの甲斐性ではなく外的要因を契機にして仕事を失うというのは、田舎に住む親や親戚、学生時代の級友、そして自分自身に対して、もっとも穏当な言い訳となるだろうと考えたが、あれほど、会社は「崖っぷち」だと信じていたのに、崖には予想以上の余地が残っているらしく、とりあえず馘首になった社員はいない。
 エレベーターの扉が開くと、薄暗く、緑と白の誘導灯だけがぼんやりと光っている廊下があらわれる。フロアー全体に人の気配なく、森閑としている。今日も一番乗りだろう。自席に手提げカバンを置いてから、廊下の奥にあるトイレに向かう。小さな正方形のタイルが床と壁面に敷き詰められ、二つ並んだ小便器の背後が和式トイレの個室になっている。深夜に醸成されたぬめった湿気を逃がすために、取っ手を九十度回して開き窓を開けると、獣骨を煮込んだ臭いが入り込む。


 洗面台に置かれた小さなポンプの頭を叩き、右手にハンドソープを塗りたくっていると、「ラブホテルを利用する時は、備え付けつけられたシャンプーの蓋を開けて、必ず精液を混ぜるようにしている」と、ネットの掲示板に書かれた匿名の告白を思い出す。復讐なのか性癖なのか、理由は書かれていなかった。そもそも創作であって真実ではないのかもしれないが、ドロリとした白い液体を見る度に、まるで呪いのように、何年も前に読んだエピソードが必ず連想される。


 右手の指を左手で包み込み、マッサージでもするように隅々まで揉み、付け根を挟んだ親指と人差し指を前後左右させ、手の甲と手の平を幾度となく裏返しては表に戻し、ハンドソープを塗り込む。毛細血管のような黒く細いヒビの入ったホーローのシンクに、真っ白な泡が溜まっていく。悲哀を覚える諦め切った肉塊をゴワゴワとしたスカート生地の上から生真面目に揉む指が思い出され、この数ヶ月で、人への接触を恐れて痴漢は減ったのだろうか、それともストレスで増えたのだろうかと考える。


 軽快な足音が近づき、蝶番が甲高い歪みを発して、扉が開いた。木製の台でできたサンダルを履いた初老の男性は、私を見て、「ご精が出ますな」と言った。いつもの彼の挨拶。嫌味で口にしているわけではない。私は、「えぇ」と、短く応じる。奥の小便器の前に立つと、ベルトを緩めて、「やはりパ・リーグの方が、今は盛り上がっていますね」と話し掛けてきた。彼と私は同じ会社に在籍はしているものの、仕事上での接点はない。定時前のトイレ限定の間柄で、決まって野球の話題を振ってくるのだが、私は全く興味がない。そして、彼も社会人として生きる為に仕込んでいるに過ぎず、知識は浅い。熱意の欠いた野球談義をしながら、彼は小便を放出し、私は手についた泡を洗い流し、「それでは」とトイレを出る。

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