実写版「カウボーイビバップ」という夢
最近のNetflixの勢いからして、もしかしたら、大傑作が生まれるのかもしれないと期待していた「カウボーイビバップ」の実写版ですが・・・・・、
残念がら、シーズン1で終了。
もちろん、Netflix側の評価と、作品の評価はイコールにはならないのですが、しかし、全10エピソードを見終わった感想としては、「だね」というのが正直なところ。
ビバップサイド
予告編が出た段階では、決して世評は悪くなったと思うのは僕だでしょうか?
僕としても、「これはこれで」と期待しておりました。
実際、本編を見ても、アニメ版の世界観の再構築には成功していたと思います。
科学は現在よりも進んでいるけど、人々の生活は奇妙に古めかしく、雑多で統一感はなく、時にレトロで時にサイバーという、「カウボーイビバップ」らしい「ごった煮」は、実写でも、さすがNetflixの資金力と、制作陣の愛で表現がされていました。
主役のスパイクは、もうちょっと身長があればなぁ・・・とは感じたけれども、エピソードを見続けていくうちに気にならず。(アジア系のキアヌ・リーブスがいたら・・・・・)
ジェットのバツイチ設定は受け継いでいるものの、子持ちで、親権が取られているというのはオリジナル。
でも、ビバップ号の中で、唯一、地に足のついたキャラだったので、「子煩悩」という属性は、決して食い合わせは悪くなったです。
フェイにしても、アニメの造形からは、ちょっと離れていはいたけれども、現実感を加味する改変だし、そもそも、「小狡いトラブルメーカーだけれどもキュート」という難しいポジションは、上手に作り上げられていました。
役者さんたち、美術さんたちの努力は実ってビジュアル的には悪くなかったです。
しかし、とにかく駄目だったのは、主役三人の関係性。
日本のエンターテイメント作品、特にマンガ・アニメ・ゲームでは、殊更に「絆」「友情」「団結」「仲間」といった、しめっぽい紐帯が描かれることが多いです。
それが「悪い」とは言いませんし、それはそれで楽しかったりもするのですが、アニメ版「カウボーイビバップ」の白眉は、同じビバップ号に乗り合わせた乗員が、時に助け合いながらも、決して互いの過去には干渉しないという、日本的物語とは違うテイストだったと、僕は思っています。
ジェットは警官時代の裏切りや奥さんとの別離、フェイは記憶喪失といった、それぞれに過去を抱えていますが、それと対峙する際、あくまでも一人でした。
物語の主軸となったスパイクにしても、ビシャスとの最後の戦いに挑む時も、やっぱり一人でした。
引き留めようとするフェイに向かって、スパイクが自分の過去を語り始めると、
と制止しようとするのが象徴しているように、結局、個人は「孤立した個」であるという突き放しは、ウェットに流れがちな日本のアニメにあって、ドライな関係性を敢えて描いて、ある意味、「リアル」でもありました。
(大島渚監督「戦場のメリークリスマス」において、デビットボウイ演じるセリアズが「私の過去は私のものだ」というセリフを思い出します)
しかし、アメリカでつくったはずの実写版は、この「ドライ」さが削がれて、妙に「ウェット」。
過去が分かりそうだというフェイに向かって、ジェットが協力を申し出るとか、フェイに誕生日ケーキを送るとか、「いかにもアメリカな仲良しこよし」な演出が差し挟まれる度に、「うーん、なんか違うなー」と違和感がバリバリでした。
ビシャスサイド
と言っても、物語全体がうまく回っていたら、そこらへんは気にならなかったとは思いますし、アニメ版とは大違いのビシャスのキャラ変化に比べたら微々たるもの。
スパイクとビシャスの対立というのは、アニメ版でもストーリーの骨格ではあったのですが、ただ、そこまでドップリ描かれているわけではなく、むしろ、なんでもありの「ごった煮」が「カウボーイビバップ」らしさで、だから、二人の過去については匂わせるに終わり、また、ビシャスのキャラにしても、やはり深く掘り下げられていたわけではありませんでした。
実写化にあたり、二人の対立をクローズアップしたかったのは分からんでもないのですが、そうなると、ビシャスについて詳らかに描かなくていけなくなったのも自然の流れではあるんでしょう。
けど、レッドドラゴン(実写版「組織」)のトップである師父(「長老」)に頭を押さえられている状態は同じでも、アニメ版の、決して膝を屈するのは潔しとしない不遜なビシャスと比べて、実写版は、けっこう「小物」っぽい。
現代的な意味づけをしたかったんでしょうけど、奥さんに暴力を振い、秘密工場で全裸で働いている移民を虐殺、という、いかにもな現代的「悪役描写」は、とってつけたようだったし、抑えきれない暴力の衝動で凶暴性を描きながらも、長老に目をつけられたり、スパイクから狙撃されると、あっさりビビりまくりで、さらには、ありがちな父親へのコンプレックスとか、「小物」感が半端なかった。(時折、銃を使うのも、いただけなかったなぁ・・・・・)
そして、スパイクとビシャスの運命の人であるジュリア。
アニメ版では、ビシャス以上にミステリアスで、物語の随所で存在を匂わしてはいたけれども、実物が登場するのはお尻の2話のみ。
そこでも途中で死んでしまうこともあり、印象には残るけれども、どのような思想・思考を持った人物かは判然とせず、あくまでも、スパイクとビシャスの「因縁」を象徴する「ミステリアスな美人」以上でも以下でもなかったです。
実写版では、ビシャスの妻に収まっているという設定もあって、アニメ版とは比べ物にならないくらいに登場し、そこで彼女の性格も細かく描かれることになりましたが、・・・・・・物語の当初から策士として行動するので、なんだか共感をし難い。
DV夫(ビシャス)に、ただただ耐える女性というのも時代遅れだとは思います。
だから、非力だけれども、支配から逃れようとしているのだから、「仕方ないか・・・・」とは思っても、あんまりにも他人を利用するシーンが多すぎ。
アニメ版の最終エピソードで、スパイクと一緒に戦っていた彼女とは大違いで、「これはジュリアではないなー」と思っていたら、最後の最後のどんでん返しで、それまでの彼女の振る舞いが伏線だったことが分かり、「あぁ、なるほど、そういう流れだったのね」と腑に落ちる面と、「進撃の巨人」実写版以来の、「えぇー、そうしちゃうの?」という、なんともモヤモヤが残る結果に。
アニメ版においても、ジュリアは、「悪魔みたいな天使か、天使みたいな悪魔か」と言われており、第三者視点からすると、スパイクとビシャスを狂わせる「魔性の女」。
だから、実写版の脚本家は、その点をさらに延長して、キャラの肉付けを行ったと推察はされます。
そして、予想の範疇を超える展開で、「視聴者を裏切りたい」という狙いだったのでしょうが、ここまでやってしまうと、「これ、カウボーイビバップか?」と思わざる得なかったのが正直なところでした・・・。
神話のベールを剝がされる
アニメでは語られなかったけれども、物語上は重要な出来事であるスパイクとビシャス、そしてジュリアの三角関係の過去について、実写版では、一話を割いて詳細に語っています。
製作者サイドとしては、「ついに、三人の過去が明かされる!」ということを「ウリ」にしたかったのは理解できるし、物語としては、ちゃんと描くことの方が定石なんでしょう。
しかし、「スターウォーズ」のスピンオフ「ハン・ソロ」が、どうにも振るわなかった理由には、語らないからこそ神秘性が宿っていたのに、語ってしまった瞬間に、神話のベールが剥がされてしまったことも一因だったと思います。(そもそも「ハン・ソロ」というタイトルなのに、ハン・ソロの物語には思えなかったというのが主たる原因でしたが・・・)
「カウボーイビバップ」にしても、せっかくアニメ版の製作者サイドが、「どうぞご自由に想像ください」と受け手に委ねていたエピソードを、わざわざ提示してくれたものの、ビシャスは街のチンピラだし、ジュリアは恋人が必死になっている最中に間男を引き込んでしまう女だし、スパイクは親友(恩人)の彼女を寝取ってしまう男だし、・・・・・てな訳で、どうにもこうにも、クソエピソードとなってしまい、その割には、ジュリアとスパイクの関係を妙に美しく描いているのは、どうにもこうにもでした。
アニメ版と比較しないで
アニメ版と比較しないで、純粋に「実写版」単体で評価しようにも、ストーリーが上手に進んでいるようには思えず。
(最後まで見た人なら分かるでしょうが)ホログラムによるどんでん返しって、今時、安易過ぎるだろ? しかも、「長老殺害」だけじゃなくて、「スパイクとビシャスの直接対決」でも、使いまわしているし。
アニメ版と同様に、実写版も、古き良きドラマを、敢えてトレースしているのは分かるんですが、そういう安直な展開も真似ているのだとすると、それはギャグにしかならんだろ・・・・・。
ということで、実写版ば夢だったんですね・・・・。
追記
ゴチャゴチャと書いているうちに訃報が。
「マクロスプラス」も面白かったですね・・・・。
いろいろと文句を書いてきましたが、自らが生み出した想像の世界が、人生の最後で、こうして実写で再現されたのを見られて、せめてもの慰めになったと思いたいです。
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