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くさったさかなの目をしてる(01)

 スマホのアラームが鳴る前に目を覚ますのが当たり前になった。そのまま二度寝をすることもなく、布団から出ることを億劫がっていると、怠惰を叱るようにけたたましい機械音を聞かされて、眠りを妨げられるよりも腹立たしい。それでいて万一を恐れ、就寝前にアラームを解除しておくことは出来ない。今朝も、枕元においてあるスマホのディスプレイをなぞってから、ベッドを離れる。


 テーブルに置かれたオーブントースターの焼き網に、八枚切りの食パンを二枚並べて、右下のダイヤル式のタイマーをテキトウに回す。バスルームに移り、窓枠に置かれた砂時計を引っくり返す。湿気で黒カビに覆われた木枠の中で、真っ青な砂が音もなく落ちていく。砂が尽きる前に、スポンジで体を洗い、髪を泡立て、ひげ剃りを終える。バスタオルで体を拭いていると、パンの焼けた臭いが鼻をくすぐり、途端に空腹を意識する。新しいパンツとシャツを着用、冷蔵庫から野菜ジュースの入ったペットボトルを取り出す。キャップを開けて、そのまま口にふくむ。トースターのダイヤルを力づくで「切」の位置まで戻し、取っ手を引っ張るようにして扉を開けると、濃い茶色の焼き目のついた食パンが飛び出す。マーガリンを塗る。


 隅が炭化しており、明らかに焼き過ぎな食パン。それでも今日は、まだマシ。髭剃りに手間取ると、芯まで硬化して咀嚼に苦労する。力ずくで粉砕しようとして、何度も口の中を切った。


 ダイヤル式のタイマーをひねってしまえば、中の電熱線は熱を発してくれるが、いつまで経ってもオフになることがないトースターは、大学の友人からの使い古し。一人暮らしを始める際、友人が、実家の倉庫から持ち出したそうだ。


 東北の片田舎から関東のはずれの大学に通うことになった私は、似たり寄ったりの素性の男たちとつるむようになった。実家から通っている学生たちは、大学進学という機会があっても、近くの学校を選んでしまうタイプ、それぞれの家庭に事情はあるのだろうが、箱入り無難で大人しく面白味が欠けているように私達には感じられた。夜な夜な誰かのアパートに集まっては、未だに親離れ子離れ出来ないと、地元出身の学生を小馬鹿にすることもあったが、保護者の監視から逃れられた誇り高き異邦人がしていることは、他人のベッドに寝転がって漫画を読み、夜を徹してのゲーム大会、飲み慣れぬ酒を口にして内心で顔をしかめるくらい。時間だけは有り余っていて、いつも「暇だ」「なんかない?」「面白いこと、ねーかな?」と口にしていた。


 夏休みを前にして、つるんでいた仲間の一人が、プロのカメラマンに弟子入りするので、学校を辞めると言い出した。素人から見ても、学生にしては分不相応なゴツい一眼レフカメラを所持しているのは知っていたものの、親からの仕送りを一週間でパチンコ屋に全て献上してしまう仲間と同じで、困った浪費癖くらいに見ていた。入学当初、カメラサークルに顔を出したこともあるが、「どんなだった?」と聞かれて、友人は「いい人たちばっかりでね」と意味深に笑った。いつも数人で群れていながら、自分たちは一匹狼だという気概だけは持っていた私達には、満足のいく答えであった。


 東京で開催されている個展に行ったら、運良く尊敬する写真家と話す機会に遭遇。将来はカメラで飯を食いたいと希望を述べたところ、ならば大学なんか時間の無駄、今直ぐに辞めて、カメラと着替えだけ持って、オレのところに来い、給料は出せないが、寝床と飯は提供してやる、昔のヤツラは、そうやって一人前になったんだ、今みたいな専門学校とか出てプロになろうなんてのはロクなもんじゃない、邪道だ、と。そこで「考えさせて下さい」などと口にしたら、この話は霧散してしまうと友人は瞬時に理解。ほんの少しでもためらいを見せても、偏屈なおやじの機嫌を損ねるに違いないと覚悟を決め、「お願いします」と頭を下げた。


 「どこの大学?」と聞かれて、正直に大学名を告げると、県内であれば「あぁ」と理解してもらえたが、県外に出てしまえば、頭の上に大きなクエスチョンマークがあらわれ、困惑の表情を押し隠して、「キャンパスは、どこらへん?」などと、まるで興味があるような振りをされる知名度ではあったが、それでも受験勉強を経て入学しているのであり、自慢にはならないまでも、四年間在籍していれば一応「大卒」という資格は手に入るわけで、あっさりと捨て去る彼に向かって仲間の一人が、「今時、住み込み? 給料出ないの? それって法律的にオッケー?」と疑問を投げかけると、友人は、「おれもそう思う。マジ? 本当に飯だけだったら、どうしよう」と苦笑い、一人が、「ホモだったら、どうする~、ほられちゃうぜ~」とちゃかすと、友人は、「寝る時も、ケツの穴をキュッと締めて寝るぜ」と返し、一人が、「グラビアアイドルとか、会えちゃうんだ」と羨ましがると、友人は、「違う違う、そういうんじゃない」と真顔になり、一人が、「親に言ったの?」と心配すると、友人は、「いや、ほんとっ、それが一番の大問題」とため息をついた。


 思い付きのような決心ではあったが、意思はかたく、我々にしても翻意を促す材料など持ち合わせてはおらず、彼のいないところでは、「どうなんだろうなぁ」などと危ぶみながらも、一週間後の東京移住を手伝った。バイト先の酒屋から軽トラを借り、「おれ、オートマ限定なんだけど」と動揺する免許取り立ての仲間を説き伏せ、真新しい家電や布団を荷台に載せて、リサイクルショップや古本屋、古着屋を巡った。「一円でも高く売りたいという」当初の野望は、早々に、「ただでも引き取って欲しい」に代わったが、それでも、いくつかの品々を荷台に残したまま、アパートに戻った。物が惜しいというよりも、捨てるにも金がかかるということで、友人たちで分け合うことに。「形見分けだな」とじゃんけん、最初の勝者はコーヒー汚れが鮮やかなクッションを選び、一度も勝てなかった凶運の持ち主には傾いた木製の本棚が贈呈された。二番目に勝ち抜けることが出来た私は、もっとも小さいという一点で、古ぼけたオーブントースターを選んだ。


 不動産屋との敷金返還交渉は、さんざんに揉め、業者など不要、自分たちで完璧に掃除をしてみせると大見得を切ったおかげで、しんみりと別れの時間を仲間で共有する余裕などなく、東京行の最終バスが出る直前まで全員で壁や床の雑巾がけをしていた。「もう行けよ」「後はやっておくから」「やばいって」と強引にリュックを背負わせると、「ありがとな」と全員と握手、自分が撮った写真を配った。全部、違う風景が写っていた。門外漢には、自宅の居間に飾られているカレンダーのようなクオリティで、「すげーな」「もう十分じゃん」「プロみたい」と褒めそやしたが、友人は、「いやいや、こんなの誰でも出来るよ」と片手を振った。


 東京へ行ってからは、一ヶ月に一回くらいの頻度でメッセージを送ってくれた。師匠についての愚痴をコミカルに語り、私達への配慮なのか、「大学は楽しかったよ」などと書いていた。特に親しかった仲間の一人は、冬休みに帰省する際、東京駅で彼と落ち合った。昔と変わってはいなかったが、師匠の薫陶なのか、酒は強くなっていたそうだ。


 二年に上がったころにはメッセージも来なくなり、また、入学当初に親しかったメンバーたちも、毛嫌いしていたサークル活動にはまり、「箱入り娘のお嬢様」な地元出身の同級生と付き合い始め、学校で顔を合わせれば「最近、どう?」と談笑するものの、互いのアパートを行き来することはなくなり、プロの写真家を目指して大学を半年で辞めた人間について、語る機会はなくなってしまった。


 彼からもらった写真の美しさは覚えているが、具体的にどんな風景であったかは思い出せない。二回の引っ越しのどちらかで捨ててしまったのか、それともクローゼットに押し込まれたままのダンボールの中で眠っているのか。


 親に泣きつかれて、退学ではなく休学という扱いではあったが、彼が大学に戻ってくることはなかった。しかし、その後、どのように生きているのは分からない。私が無知なだけで新進気鋭のフォトグラファーとして華々しく活躍しているのか、クライアントから言われるままに商用写真を撮りまくっているのか、町の写真館で「はーい、こっち見て下さいー」とニコニコと愛想笑いでも振りまいているのか、それとも、もうカメラとは全く関係のない仕事に就いているのか。


 名前も忘れてしまっており、ネットで検索を掛けることも出来ない。かつての仲間たちと直接に連絡を取り合うのは年賀状代わりに年に一回程度ではあるが、数人とSNSでつながっている。その中には、大学一年の終わりに東京で彼と飲んだ男もいる。もしかしたら、私に語らないだけで、いまだに親交を保っているのかもしれない。少なくとも、名前くらいは記憶しているだろう。金曜日の夜、することもなく、戯れに彼の消息を問いただそうかとも思いつき、携帯に文面を打ち込んだこともあったが、自分が何を期待しているのか、どんな答えがかえってきたら満足なのか分からず、最終的には送信ボタンを押さなかった。

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