見出し画像

「アスペル・カノジョ」完結したので、その感想

愛ってなんだー

恋愛、異性愛、同性愛、家族愛、夫婦愛、親子愛、兄弟愛、兄妹愛、姉弟愛、姉妹愛、師弟愛、隣人愛、郷土愛、祖国愛、同志愛、人類愛、博愛、仁愛、兼愛、情愛、自己愛、友愛、性愛。

改めて並べてみますと、この世の中には、いろんな「愛」があるものだなぁと痛感します。

近代以降、物語のモチーフの王道は「愛」でして、二、三十年前の恋愛至上主義は薄まったとは言え、数多ある「愛」の中で、やっぱり「恋愛」は、今も変わらず、人気「コンテンツ」。

個人としては「博愛」は手に余るけれども、「友愛」では面白味に欠ける。
「家族愛」の「血」の縛り、「郷土愛」の「場所」の縛りではなく、本来見ず知らずのはずの人と人が関係を構築していくというのは、「物語」としては、ダイナミズムを盛り込みやすく、そしてロマンチックに溢れています。

理解できるはずという希望

先日、最終巻が発売された「アスペル・カノジョ」。
自分としては珍しく、なにかに勧められたわけではなく、なんとなく手にして、最終巻まで読みふけった作品です。
当時、アマゾンレビューも少なく、「日々膨大なコンテンツが生み出される中で、この作品を見つけるとは、オレの選択眼も大したものだな」と、一人で悦に入っていました。

未読の方に、ストーリーの概略を説明しますと、

仕事は新聞配達のアルバイト、友達もいなくて、月三万円の風呂なしアパートで暮らしている、しがない同人作家の僕に、ある日、見知らぬ少女が訪ねて来た! えっ、僕のマンガのファン? ウソでしょ!! しかも、泊っていくの!?
童貞の大人しい僕と、処女だけど変わり者の彼女。隣の部屋にはエッチなお姉さんが引っ越して来て、もう僕の生活はハチャメチャ。
おいおい、勘弁してくれよ、僕は静かな一人の生活を送りたいだけなのに、トホホ・・・・・。
変わり者の大家や職場の仲間も巻き込んで繰り広げられるドタバタ・ラブストーリーの始まり!

・・・・・・・・という感じです (嘘は書いてません) 。

もう少し真面目に書くと、社会からドロップアウトするほどではないけれど、生きづらさを抱えている男性「横井」が、「アスペルガー症候群」の女性「斉藤」と一緒に生活を送ることで、徐々にではあるけれども、希望を見出していくお話しです。

「愛」の形は、人それぞれ、いろいろなパターンがあれども、心を通わせることが出来る(という希望があるから)惹かれ合う。

画像1

(「アスペル・カノジョ(3)」56P)

でありながら、一方で、対象が、まったく違う人間だからこそ魅力を覚えるもの。

「同じような人間だから一緒にいて寂しさから逃避できる」から相手に同質性を求めていながら、「自分とは違うタイプだから憧憬を抱く」ので相手に異質性(他者性と言い換えても、この場合は、いいかも)を望んでしまう。

画像2

(「アスペル・カノジョ(2)」121P)

「同質性」と「異質性」の並立と葛藤は、「恋愛」(時に夫婦でも)においては常に横たわる問題なんだろうけども、「アスペル・カノジョ」の横井と斉藤も例外ではない。

横井も世間一般の価値基準からすると、「平均」からは外れているタイプだし、それは彼自身も分かっている。
そんな彼からしても、斉藤という女性は、「規格外」な反応を示すことが多々ある。

社会や周囲の無理解から、さんざん攻撃されてきた彼女は、自らを守るために、言葉ではなく、時に暴力によって自己の正当性の主張をしてきた。

この習性は、すっかり身についてしまっており、「斉藤」という女性を知らない人間からしてみれば(それは主人公の横井ですら例外ではない)、どうして、こんな極端な、暴力すら伴うリアクションとなってあらわれてくるのか、まったく困惑するしかない。

画像3

(「アスペル・カノジョ(2)」111P)

さらには、他人やら物に当たる「暴力性」は、過去の記憶が蘇った際には、斉藤自身にもパニックや自傷行為となって襲い掛かる。

画像4

(「アスペル・カノジョ(4)」74P)

斉藤の圧倒的な「異質性」(他者性)を前にして、それでもなお、時に得ることが出来る「同質性」を希望に、横井は、彼女を理解しようと努力する。

画像8

(「アスペル・カノジョ(2)」93P)

その決意は、暴力を前にしても揺るがない。

それが愛なのか

互助なのか、一方的な依存なのか、一方的な依存に見えて共依存なのか、大概のカップルの関係性を、一言で言い表すことは難しいです。

自由な選択によって結ばれた二人が、対等な立場で、互いに補い、助け合って生きることが健全なんだろうけど、「収入面では旦那が強いが、精神面では妻は強い」なんて夫婦は、世の中にごまんといるわけで、「それが不幸?」と問われれば、ものすごく幸せではないにしても、特別不幸というわけでもないのが一般的なんだと思う。

「アスペル・カノジョ」は、横井のアパートに、見ず知らずの斉藤が訪ねることから始まる。

売れない同人誌のファンであることを知り、困惑しつつも、横井は斉藤と一緒に暮らすという選択をする。

関係の始まりには、自らの作品のファンというのは大きな原動力にはなったが、しかし関係の維持においては、どうしたって、それだけでは弱い。

親のすねをかじっている学生であれば気にしなくていいのだろうが、生活を一つにするとなれば、精神論では片付かない問題が発生してくる。(「花束みたいな恋をした」でも、仕送りが止められたことが、二人の関係が破綻に向かう端緒だったなぁ)

単に「内向的な人間」というレベルであれば、片方が外で働き、片方は家庭内の家事を担当するという役割分担も可能かもしれないが、物語が始まった当初は、斉藤は料理すらままならない状態で、物質的にも精神的にも横井に依存するしかない存在。

それでも、まだ性的な結び付きがあるのなら、(人によっては)そこに価値を見い出すことが出来るのかしれないが、それもない(物語の進行にともなって、その状況は、多少は変化をするが、最後まで完全なセックスには至らない)。

画像10

(「アスペル・カノジョ(2)」168P)

横井にとって斉藤は、当初は、生きているだけで愛おしい存在であり、彼女が精神的に不安定で無力であり、食い扶持も稼ぐことも難しい(経済的には)無能であり、横井以外の他人から隔絶された無縁であるからこそ、いっそう両者のポジションは安定的に固定され、上下の秩序も維持されてしまっている。

画像9

(「アスペル・カノジョ(3)」56P)

コミュニケーションが不得手で、人との交わりを極力絶って生きてきた横井にとって、集団から疎外されて生きてきた斉藤は、共感を得易い人間であり、そして、度々、彼自身の口から述べられるように、彼女の容姿は、十分に彼の眼鏡にかなうレベルである。

「女性」として十分に許容でき、かつ、か弱い存在を手元に置いて保護しておくことに、横井自身は、不健全な喜びを見い出していることを自覚している。

画像5

(「アスペル・カノジョ(9)」65P)

上下の秩序を、横井は暴力的な方法でもって維持しているわけではないし、自己評価の低い斉藤は、そういう立ち位置を望んですらいるように見える。こういう関係性で、当人たちが満足しているなら、別段、他人が、どうこういうものではない。

ただし、これは横井に(精神的にも金銭的にも)余裕があってこそ成り立つ関係性であり、物語の後半で彼が体調を崩してから、斉藤にも、経済的な自立(自分の食い扶持くらいは、自分で稼げってこと)が求められる。

自立してくれないと二人で共倒れになる可能性はあるが、自立してしまうと二人の関係が破綻する可能性もある。

横井も決して自己評価が高い人間ではない。
その「可能性」に怯えるのだが、しかし、だからといって彼女の道を閉ざすようなことはしない。

画像6

(「アスペル・カノジョ(11)」21P)

「善導」と「支配」は紙一重ではあるけれども、横井は、決して「支配」を肯定することはない。(逆のキャラとして、「赤川」がいるわけだ)

恋愛漫画

「アスペル・カノジョ」というタイトルから分かる通り、この物語では、「アスペルガー症候群」が大きな下敷きになっています。

読み進める内に、読者は、自然とアスペルガー症候群について学ぶことが出来、とても「為になる」マンガです。(僕個人は、アスペルガー症候群について無知に等しいので、もしかしたら、専門家や身近にいる人からすると、ウソが入り込んでいると感じるのかもしれません。そうは考えても、この作品が、ある種の生きづらさについて真摯に向き合っているのは痛感せざる得ないです)

どうにか社会に適合できている横井が、社会では認められないような歪な応答をしてしまうこともある斉藤を理解しようする過程は、「アスペルガー症候群」への知識を深めることです。
そして主人公の横井の目を通して、読者も自然と啓蒙されます。

ただ、この作品が優れているのは、個人的な「珍しい体験」を披露して、読者に「へぇー」と感心をさせて終わるだけの話ではないところだと思います。
横井からの斉藤へのアプローチは、障害への理解を深めることである同時に、彼女自身(現在だけではなく、過去までも含めて)を知ろうとすることです。

自分以外の他人を知ろうとする努力自体は、別段、彼だけの「珍しい体験」ではありません。社会に生きていく上で、好き嫌いにかからず、誰もが日々行っていることです。

この普遍的な行為が丁寧に描かれていることで、単なる「本当にあった〇〇な話」といった平板なレポート漫画ではなく、ちゃんとした奥行きのある物語として成立させています。

「同質性」と「異質性」の並立と葛藤、関係性の変化と戸惑い、二人の間に発生する多くの問題は、確かにアスペルガー症候群に起因することかもしれません。

この物語において度々描写されるコミュニケーションの不全にしても、辛うじて社会に適合している横井と、別種の思考回路を持っている斉藤の間において起こる問題ではある。

画像7

(「アスペル・カノジョ(3)」81P)

しかし、そういった価値観の相違という事態は、これもまた、往々にして誰もが経験することである。(この物語の中で、度々ギャグシーンに使われる横井の性癖など、価値観の相違の最たるもの)

この物語は、確かにアスペルガー症候群がモチーフになっており、そのことを軽視するのも危険ではあるものの、ただ、多くの人には理解できない、信じることのできない物珍しい体験談が描かれているのではないと思います。

アスペルガー症候群によって、人間関係の問題が、よりソリッドにあらわれているものの、その核にあるものは、決して特異な問題ではなく、むしろ、あらゆる人間関係に通底していると言っても過言ではないと思います。

作品内では、「障碍者=聖人」と描いていないように、庇護者の横井もまた、聖人に収めてはいません。

横井の斉藤に対する献身は、無私の奉仕ではない。

画像11

(「アスペル・カノジョ(9)」159P)

そのことも、しっかりと描写はされているが、それでも、我が身を振り返ると、ここまで人を愛せるものだろうか、と慄然とせざる得ない。

そういう意味において、この物語は、十分過ぎるくらいの「恋愛漫画」だと思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?