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くさったさかなの目をしてる(08)

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 壁を透過して廊下から漂っていた、帰路につく勤め人たちの賑々しさが途絶えると、入れ替わるようにして、窓の外からは空腹に急かされた若者たちの喧騒がのぼってくる。ヤマキが窓を開けると、油の浮いた白濁とした臭いが流れ込む。「あぁーあ、また並んでる。こんなんだから、いつまで経っても、感染が収まらないんだよ」と、誰に頼まれたわけでもなく、また一人二人誤差があったところで、なんの問題もないにもかかわらずラーメン屋の列に並ぶ人数を熱心に数える。


 定時を過ぎてしまうと、ヤマキは途端に怠惰になる。携帯を取り出してはSNSの更新を確認し、面白ニュースを見つけてはケタケタと笑い、「飯を買ってきます」と出掛けては帰って来ない。それでいて、キーボードを緩慢に打ちながら、「早く帰りたいですねー」とぼやいている。


 「知ってます?」と話し掛けられ、やれ「マウスシールドは無意味だ」、やれ「検査結果が出る前にバーベキューに参加したバカ女がいる」、やれ「プロ野球選手の合コンでクラスター発生した」と、ネットで拾ったばかりのネタを知りたくもないのに教えくれる。


 国内国外を問わず、悲惨な症状や後遺症について熱心に調べて、「こわくないすか?」と言っていながら、自分だけは安泰だと思っており、リモートワークが中心だった時期に、ちょっとだけ具合が悪くなり、熱は三十七度には達しなかったが、今振り返ると自分は感染したけど無症状だった可能性が高い、と信じている。ヤマキは、中学高校では野球部に所属しており、もう一歩で甲子園だったというくらい打ち込んでいたそうで、そういう経験が、自己の肉体への野放図な信頼を抱かせているのだろうか。


「サワムラさんって、有休復活の為に出勤してきたって話でしょ? 以前の使い切っちゃったけど、これで今月は満額でしょ? いいですよねー」
 どこから仕入れた情報なのだろうか、ヤマキはすっかり信じている。「こうして、オレたちが夜遅くまで残業して、家で寝ているサワムラさんの給料を稼いでやってるわけで、なんか変ですよねー」と笑う。


 病欠のウルシバラの仕事は、おおよそ半分を私が担当し、四分の一をキタとヤマキに分配している。


 火曜と木曜、必ず大きめのバッグを肩から掛けて会社に来るキタが、退勤後、なにかに参加しているのは確実だったが、その内容について口外することはない。酒の席で、ヤマキが、「毎月の月謝っていうか必要経費、いくらなんですか?」とカマをかけ、「なんのこと、意味分かんない」と鋭く否定されたが、鷹揚に受け流さなかったことで、噂の信憑性の裏付けとなった。活動が、知人からの懇請による人数合わせなのか、将来への布石の勉強なのか、ストレスの発散を兼ねた運動なのか、個人的な嗜好を満たす文化的な教室なのかは分からぬままであったが、緊急事態宣言解除も火曜木曜には、定時直前から帰り支度を始めて、アナログ時計の長針が十二時を指すと同時に席を立った。ウルシバラの欠勤で、キタは、秘密の活動を最低でも三回は休んでいるはずだが、私たちは知らないことになっているから、「悪いね」と詫びることも出来ない。


 ヤマキが外に出てしまい、黙々と仕事に従事するキタと二人でいると、彼女が叩くキーボードの音に私への非難を読み取ってしまう。課せられている分量は平等であり、ヤマキが勤勉であろうと怠慢であろうと、キタの退勤時間に変わりはない。ただ、効率的に働く自分よりも、ダラダラと時間を浪費する彼の方が、結果的には残業代を多く手に入れるわけで、そのことが納得できないのかもしれない。そうであるならば、あなたも彼に倣い小一時間出掛けて、自由に過ごせばいいではないか? そんなことで、私が叱らないであろうことは、あなた方は十分に理解しているではないか? などと、無言の気迫に押されて、心の中で愚痴ってしまうが、本当は、どのように感じているのか、もちろん口に出すことはないし、大きなマスクで顔の下半分が覆われており表情は読み解けない。しかし、普段であれば、自らの割り当てを終えれば、「手伝いましょうか?」と声を掛けてくるのだが、今回に限っては、そのような申し出はないし、帰り際、先に席を立つことに対して、形式であっても、「すいません」などと一言残すこともない。
 エレベーターの扉が開く音がして、部屋に入ってくるなり、ヤマキは、「びっくりしましたよ」と言い、席に就くと、ビニール袋から牛丼弁当を取り出した。
「ユーチューバーが配信してたんですよ、配信? 録画かな? どっちでもいいんですけど、けっこう有名なユーチューバーで、ほら、こいつこいつ、登録者数けっこうあるでしょ? オレって、別にユーチューバーとか、そんなに熱心に見るタイプではないでしょ? 小学生じゃあるまいし。そんなオレでも知っているくらいで、こいつのことも好きなわけじゃないし、動画も、たまに見るくらいですけれども、やっぱ、本物見ちゃうとテンション上がりますね」


 牛丼を頬張りながら、ヤマキは楽しそうに路上で見かけたユーチューバーについて語る。室内に撒き散らかされた言葉を無下に放しておくことも出来ず、それでいてヤマキを調子づかせるわけにもいかず、私は、「うん、そう」と短く興味なさそうに相づちを打ったが、新たなカロリーを手に入れて、ますます饒舌になり、今まで町中で遭遇した著名人を列挙、知人から又聞きした売れっ子若手芸人による飲食店での喧嘩騒ぎ、キャバ嬢から聞いた既婚のプロ野球選手のしつこさなどを愉快に話し、自らが回答した街頭インタビューについて語ったついでに、私にもテレビの出演経験があるか聞いてきた。


 就職した当時は、街中でビデオカメラを担いだ男を見つけると浮足立ち、道行く人々に声を掛けている女性のマイクが、次は自分に向けられるのではないかと心臓を高鳴らせいたが、今は、テレビクルーと思しき集団を見かければ、遠回りしてでも避けるようにしている。そんなことを説明したところで、「都庁前で、デモとかやってるじゃないですか? あぁいうのを見かけると、端っこにでも写ったりしないかな? って思って、興味なんかまったくないけど、こうやって歩道で腕組みして、時々、うんうんとかうなづいたりするんですけど、やりません? やらない? おっかしいなぁ、オレだけ?」と語る男に聞かせるのは不毛であり、「めんどうくさくて」とだけ答えておいた。


 ヤマキのおしゃべりをぶった切るようにしてキタが立ち上がり、「終わりましたから、帰ります」と部屋から出ていった。ヤマキは、「なんか機嫌悪いですね、アレがキタのか?」と一人で笑っている。


 十一時前、私自身が私に課したウルシバラの仕事を処理し終えた。最後にメーラーを見て、宛名と題名だけをざっと流し読み、今日中に返信をしなくてはいけない案件はないと判断し、アパートに着くのは十二時過ぎ、腹は減っているが、ある時点を超えて以降、空腹は観念的なものになっており、切実に何かを食べたいという欲求はなく、ただ漠然と栄養を取らなくてはいけないという思考だけが残っている。いったん腹に付いた肉を落とすのは容易ではない年齢を迎えようとしており、かつ、そのことを徐々に気にすらしなくなっているものの、こんな時間、消化にいいものだけを軽く摂取して、脂っこいものは避けるべきだろうと分かってはいるが、アパート近くのコンビニに立ち寄り、惣菜を前にすれば、今日も残業して頑張ったのだからと、ハイカロリーな食べ物とビールを買い物かごに入れてしまうだろう。


 久しく口を閉じていたヤマキであったが、「嫌になりますね」と言い、机に転がしていたボールペンを引き出しに仕舞う。
「終わった?」
「えぇ、そちらは、どうです?」
「もう少し」
「手伝いましょうか?」
 さんざんに手を抜いて仕事をしていながら、「手伝いましょうか?」などと言ってくるのは、彼に他意がない証拠であったが、瞬間、自分は小馬鹿にされているのではないだろうかと腹立たしかった。「大した量はないから、十分くらいで終わるし」と返答すれば、「それじゃ、一緒に帰りましょう」などと言われかねず、しかし、「まだまだたくさん残っているから」と返答すれば、「じゃ、手伝いますよ」と言われかねない。「いや、大丈夫だよ」と口にして、「遠慮しなくて、いいですから」と迫られ、ちょうどパソコンのディスプレイに表示されたメーラーが目に入り、「残りは自分の仕事で、任せるわけにはいかないから」と言い訳を思い付き、ヤマキは、「部下の評価とかですか?」と言ってきたので、「まぁ、そんなとこだよ」と笑った。
「ホントっ、無理しないで下さい」


 十五分、待つことにする。他の社員たちは、とっくの前に帰宅しており、会社には私しかいないが、飲み会をラーメンでシメるべく集まった酔っ払いたちが建物の外に大勢いるらしく、喧騒がこそばゆい。明日に先送りした仕事はあったが、一旦下げしまったギアを再度持ち上げる気にはならない。


 ジョッキが割れる派手な音が聞こえてきた。喧嘩ではなく、単なる酔っぱらいの不注意のようで、直ぐに大きな笑い声が覆いかぶさる。ヤマキが去ってから十五分が経過し、私も帰ることにする。部屋の電気を消してしまうと、建物全体が黒に沈む。心もとない誘導灯を頼りに廊下を歩く。アルコールにただれた声が、いっそう耳につく。エレベーターを降りて、オートロックの扉を出ると、道路に、白い湯気の立つ瑞々しいゲロが広がっている。思わぬ不意打ちで、目を逸らす暇はなく、ドロドロの流動物の中に未消化の黄色い麺と青ネギの鮮やかな対比が頭に残ってしまう。

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