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くさったさかなの目をしてる(06)

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 ハンドソープで手を泡だらけにしている私に、昨日の巨人軍の試合について、「ひどかったですねー、特にピッチャー。あれなんですか? なんで、あんなの起用するんですかねー?」などと、テレビで耳にしたばかりの監督批判を、そのままトレースして話す定年間際の男性へ、「そうなんですかー、それはマズいですね」などと同意している自分に愛想を尽かしていると、扉が開いた。他愛もないおしゃべりに過ぎないのに、第三者が入ってくると、まるで聞かれては困るとばかりに、初老の男性は唐突に口を閉ざしてしまうので、千切れた言の葉が響く便所に顔を出したヤマキは、「あっ、おつかれさまです」と一礼してから、私に向かって、「電話です」と言った。急いで手を洗い、「朝から忙しいですな」と声を掛けられて、目元を細めて微笑みをあらわし、トイレを出た。


 頻繁にトイレで手洗いをする習慣を、いつから始めたのか自分でも思い出せないが、世間でアルコール消毒液が一斉に売り場から消え去る遥か前から、でも社会人になってからで、ヤマキからは、「先見の明がありますね」などとおだてられたこともあるが、廊下で聞いてしまった、「小心者ですよね」という人物評は私に違いない。


 電話はサワムラの母親で間違いなく、薄暗い廊下を歩くヤマキの背中を見ながら、折り返し掛けさせると伝えたり、代わりに言付けを聞いておくのではなく、わざわざ保留にしてトイレにまで来るのは、彼流の愚弄なのだろうかと考える。


 受話器を取って、赤く光る外線のボタンを押したと同時に、「お待たせしました」と言う。直ぐ様、「どうもすいません」と、女の声がする。
「サワムラの母です。いつもご迷惑をおかけしてすいませんが、今日も息子の体調が芳しくなく」
 「そうでか」「えぇえぇ」「いえいえ」と相づちを打ちながら、パソコンの電源を入れて、出勤してくるウルシバラやキタに片手で挨拶をし、壁にかけられた時計を眺める。サワムラも私と同じく東北の出身。母は、看病の為に上京してきたのであろう。標準語からは微妙に外れたイントネーションで、「本当に本当に、すいません」「仕事をしても大丈夫だとお医者様はおっしゃったんですが」「お忙しいのに、こんな面倒をお掛けして」と言われれば、「お母さんこそ、大変で」「治療に専念してもらって、まったく問題ありませんから」「今は当たり前です、誰でもなる病気ですよ」などと相手をしなくてはならず、求められるままに慰めの言葉をなぞる。


 うちの給料で広々としたアパートを借りられるわけもなく、単身者用の狭苦しい室内で、一日中、布団から出ることのできない息子の直ぐ側で生活をしている彼女からすれば、朝の電話だけが唯一のコミュニケーションの機会らしく、話し相手が、どうにかこうにか穏便に話を切り上げようとしても、言葉尻を捉えては息子の病欠を詫び、病気の一進一退を嘆き、担当医への不満を述べ、つまりは昨日と同じことを延々としゃべり続ける。


 「こんな時に東京にいなくてはならないなんて」と言われて、まるでバイキンの巣窟に住んでいるような扱いに、東京に住むしかない人間としては無言の苦笑を禁じ得ないが、芸能人が亡くなったり、感染者が大台を突破する度に、携帯電話には郷里の母からの着信履歴が残り、田舎住まいにとっては真っ当な印象なのだろう。


 どうにか電話を終えて、受話器を戻す私と目の合ったウルシバラは、「大変でしたね」と労い、「サワムラさん、最後の出社から十日くらい経ちました?」と尋ねたのは、本気で欠勤日数を知りたかったからではなく、なんとなく気苦労が紛れるだろうという上司への配慮、それを承知しているから、「そんなものかなぁ」などと軽い応答でもって仕事に移ろうとしたが、ヤマキが勝手に話題を引き取り、「先週は来てなかったでしょ。先々週は、金曜日はいなかった、それは確実ですよ。こいつ、三連休じゃんって思いましたから。あれ? そうすると、木曜日来てた? どうだったかなぁ」などと卓上カレンダーを指でなぞる。


 サワムラが配属になって、時短勤務ながらも一ヶ月ほどは休むことはなかった。仕事にも慣れ、同僚たちとも打ち解け、当初は警戒するように接していたヤマキも、休憩時間には世間話をするようになっていた。近い内には通常の勤務体系に移行して、戦力となるであろうと想定し始めると、欠勤が増えていった。底に穴が開いたようで、自信がみるみると失われていき、散見された笑顔が途絶えて、せっかく出勤できても、いつもこちらの顔色をうかがってオドオドとしており挙動不審、見ていて気の毒に思えることもあれば、一方で腹立たしくも感じられた。


 サカガミの送別会を開いた居酒屋に、「しばらくお休みします」という貼り紙がされ、「出たらしいですよ」とヤマキが、どうしてか嬉しそうに語り、いよいよ身近になってきたと思い、欠勤であれば母親に気を使い、出勤であれば息子に気を使い、感染するのが早いか、サワムラと同じ病気になるのが早いか。


 昼飯はコンビニではなく外食にしようと考えていた私に、ウルシバラが、「すいません、具合が悪いんで、帰らせて下さい」と言ってきた。顔面蒼白ではあったが、「アレじゃないですよ、朝、体温測って来ましたから」と口の端には笑みの残滓をたたえた。班内において、能率はともかく仕事への勤勉さにおいて優る者はなく、「無理しないで、早く帰って」と早退を許可した。ウルシバラが部屋から出て行くのを見届けたヤマキは、「陽性だったら、俺たち自宅待機ですね」と言った。


 ウルシバラは「今日は直ぐ寝て、明日は頑張りますので」と言い残していったが、翌朝、私の携帯には、「すいません、病院へ行ってから出勤するので遅れます」とのメールが届き、仕事をしていると、電話でインフルエンザだったと伝えて来た。
「インフルエンザ?」
「はい、そう言われました」
 私の戸惑いが電話越しに伝わったようで、「どうやら子供が幼稚園でうつされたみたいで」と弁明した。受話器を置いて、「インフルエンザっだって」と、みんなに知らせると、ハラは、「インフルエンザって、激減しているってニュースで見たけど」と疑問を口にしたので、「さすがに嘘は言わないでしょう」と彼女を説得するというよりは、自分自身に言い聞かせた。ヤマキは、「嘘くせ。ズル休みじゃないんですか?」と悪態をついたが、口に出した瞬間に、久しぶりに出勤しているサワムラの存在に気が付き、語尾を畳み掛けるように濁して、机に目を伏せた。キタは今にも舌打ちしそうな顔をしていたが、当のサワムラは聞こえてなかったようにパソコンのディスプレイを見詰めて、マウスを動かしている。一応リーダーという立場にいる以上、注意やフォローをすべきだとは考えたが、なにも言葉が思いつかず、場を和ませるような巧みな話術も、ピエロを演じて失笑を勝ち得るような勇気もなく、面倒を避ける為に失言はなかったという前提に立とうとしているスタッフたちに甘えて、職場に漂うねっとりとした緊張感が時間によって消え去るのを待つことにした。


 派遣のサカガミが退職してから、一人当たりの仕事の分量は増えた。各々に余裕はなく、ウルシバラの担当分については、危急の要件をのぞいて、「明日は頑張りますので」という彼の言葉を信じ、手付かずのままであるのはキタもヤマキも分かっているのだろうが、口火を切れば責任を負わせられるような気がするのだろう、沈黙を守っている。


 自分の仕事に目処が立ち、マスクをずらし、かたわらの湯呑を手にして口まで運んでから空だと分かる。席を立とうとして、たまたま目が合ったサワムラが、すまなそうに微笑んだ。時間を確かめると、私たちよりも一時間ほど早い彼の退勤時間は、とうに過ぎている。「ごめんごめん、今日は、もう大丈夫ですから」と帰宅を促すと、「いや、でも」と渋る。
「こんなに忙しいのに」
 普段であれば、「すいません、これで」と自分から申告するにもかかわらず、約束の時間を迎えても居残っていたのは彼なりの気遣いだったが、もう割り振れる雑務など残っていない。指導をする手間も惜しく、また労力を費やしたところで明日も出勤できるかどうか。職場の事情やら私たちの心情は、彼も理解しているようで、「私も頑張ります。お手伝いさせて下さい」などと強訴することもなく、しかし同僚たちの労苦を見捨てることも出来ず、無為に椅子に座っている。職場に厄介事を増やすのは、彼の本意ではなかろうが、まったく手付かずの仕事を、夕方になってようやく始めなくてはならないという現在の私は、同情するのも白々しく思え、鼓舞する為の独善的なバイタリティも持ち合わせておらず、「そんな、たいしたことないから」と口にしながらも、ちゃんと朗らかな表情を維持できていたかどうか自信はない。


 私の当惑を察知した彼が、「そうですよね」とだけつぶやいて帰ってしまうと、水の張った洗面器から顔を上げたように、意地の悪い笑みを浮かべたヤマキが、「帰りの電車に飛び込んだりして」と勢いよく口にし、キタが「そういうの、やめなさい」と制した。


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