くさったさかなの目をしてる(04)

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 部屋に戻ると、入社二年目のヤマキがサンドイッチを片手にパソコンのマウスを操作している。「おはよう」と声を掛けると、「おつかれさまです」と返してきた。
「サカガミさんから電話があって、今日は休むそうです」
 サカガミは二十代後半の既婚者、要領が良くない契約手社員の女性。月に一度か二度、必ず「病欠」する。
「なんて言ってた?」
「いつも通り、体調不良です」
「そう」
「まさか、契約、延長しないですよね?」
「さぁね。オレが決めることじゃないから」
「意見はできるでしょ?」
「多少はね」
 強く望めば彼女をクビにすることは可能だろう。しかし、新しい人間が、彼女よりもマシであるとは限らない。新人に一から仕事を教え込む手間暇まで想像してしまうと、とりあえず彼女の不誠実な勤務を前提にして予定を組んで仕事を回せている以上、上から評価を尋ねられれば、可もなく不可もなくと返事をしてしまう。


 サンドイッチを包んでいた透明なフィルムをゴミ箱に捨てながら、「もういいでしょ、我慢の限界ですよ」とヤマキは言った。彼はサカガミに対して、いつも厳しい意見を口にするが、どこまで本気なのだろうと疑ってしまう。大学時代から付き合っている彼の恋人は、親との約束で、卒業後は地元へ戻って信金に勤めている。共通の口座をつくり、三百万円貯まったら結婚しようと約束しているそうだ。そんな事情を聞いたサカガミは、「いいわねー、若いって」と冷やかし、「今、いくら? いくらなの?」としつこく問いただして、「いいでしょ、いくらでも」とうざがられていた。始業前や休憩時間には、よくおしゃべりをしている二人、関係を勘繰ったことはなかったが、残業を終えて立ち寄った中華料理屋での一人晩酌からの帰り道、人目も気にせず互いの口腔を貪り合っていた二人を目撃した。


 サンドイッチを食べ終えて派手な赤いマスクを装着したヤマキは、出社してきたスタッフに、「今日も、休みだそうです」と半笑いで伝えた。寡黙なウルシバラは肩をすくめて、サカガミと同性のキタは「まぁーたー?」と呆れ、「気楽ね」と机の上にタンブラーを置いた。
「ホントっ、そうですよ」
「先週も休んでいたでしょ?」
「そうそう」
 二人が私の管理能力不足を非難しているようで、先週は前もって申請のあった有休だと伝えたかったが、サカガミ以外のスタッフ全員が正社員。有休というシステムは形だけで、帳簿上での取得となっている。小さな言い訳によって、より大きな不満を引きずり出してしまうことを恐れ、困惑の笑みを浮かべて、彼らの意見に同調しているという体裁を整える。


 病欠の翌日には、形式的に「もう大丈夫?」などと労りの言葉をかけてから、「どうせ仮病なんだろ?」という本心が、わずかに顔を出すように、不機嫌な顔付きで、「いつも同じことを口にして恐縮だけど、健康維持も仕事のうちだよ」と諭すと、サカガミは、とりあえずは神妙に、「はい」とうなだれるが、昼休みには、昨日体調不良で突然に休んだという設定を忘れて、「えぇー、なに、うそでしょー」と年の近いヤマキと大声を上げて馬鹿話をしている。班の士気にかかわることであったが、所詮は部外者の派遣、強く叱責することもできず、いっそ彼女の方から身を引いてくれないだろうかなどと虫の良いことを願っていたら、旦那の仕事の関係で、仕事を辞めなくてはいけなくなったと告げられた。


 サカガミは、都内でOLをしていたが、結婚を機に退職、半年ほど専業主婦に従事。再就職の理由を「思ったよりも退屈だった」と述べていたが、歓迎会にて、したたかに酔っ払った彼女は、「流産したんです、私がいけなかったんです」と号泣した。その日は、どうにかこうにか慰め、タクシーに乗せて帰宅させた。翌日から、どんな顔をして接したものか悩ましかったが、出勤してきた彼女は、「昨日はすいませんでした」と、さっぱりしていた。自分の発言を覚えていないのか、覚えていない演技をしているか。いずれにしろ、私たち四人も、彼女の過去を忘れることにした。
「転勤?」
「えぇ、そんなところです」
 年度末でもなく、彼女の言葉を素直に信じることは出来なかった。失職ならば妻まで離職するのは愚かしく、再度の妊娠なのかもしれないと思い至ったが、本人が話したくないのであれば、無理強いする必要もない。他のスタッフの耳に入ることも承知で、ぬけぬけと「そうか、残念だよ」と言った。


 早速、サカガミの退職の意思を上に伝えて、代わりをお願いした。ヤマキは、「若い子がいいですねー、若い子。手垢のついてない感じで。田舎の短大出たばっかりの子とか最高」と浮かれた。「あんた、彼女いるでしょ?」「そりゃ、いるけどさ。それでも若い子が職場にいる方が、やる気も出るじゃん」「えぇ、なにそれ、私も、まだまだ若いんですけど」「結婚している人間に言われても」「なによ、結局、狙っているんでしょ? 信じて待っている彼女、かわいそー」などと、じゃれ合っている二人を見せつけられて、酔客たちの批難や嫉妬、冷やかしの視線など物ともせずに、舌と舌を絡めていたカップルが鮮やかに蘇る。


 私が新人に求めることは、職場に波風を立たせない人間であること。それに付随する形で、適度な能力があってくれれば、と願っている。無能であれば同僚たちを苛立たせることになるだろうが、過剰な有能さは、既に出来上がったチームにおいては害悪になる可能性も。ほどほどで良い。それ以上は不必要。ヤマキと二人だけの場にて、「ねぇ、やっぱり若くて、可愛い子がいいですよね?」と聞かれ、「まぁ、能力が同じなら、そりゃねー」などと答えたが、性格や処理能力に問題がなくても、その外貌が、現在の秩序を乱す要因となるのであれば迷惑。


 ヤマキを失望させるような醜女や肥満でかまわないし、今なら仕事にあぶれた人間などいくらでもいるだろうが、新たな人員は、なかなか決まらなかった。「まさか、なしってことはないでしょうね?」とキタは訝り、私も口には出さなかったが同意見。ヤマキにつつかれて、「いつごろになりそうです?」と聞いても、上の答えははっきりとせず、前年同期の売上をクリアーできれば表向きはともかく、内心では「上出来」と褒めたくなるような状況だったのに日本中の経済活動が一斉に止まった。リストラではなく自主退職など願ったり叶ったり、わざわざ補充要員を充てがいたくはないが、明言すれば現場の不満が爆発するのは目に見えており、こちらが断念するのを待っているのではないかと疑いたくなる。


 サカガミが退職する一週間前になり、内線でもって応接室まで来るよう言われた。壁には古びた賞状やトロフィーが並び、部屋の中央には、いかめしいソファーが鎮座している部屋に入るのは、社長直々に、班長の内示を受けて以来。直属の上司と部長の他に、青白い顔をした青年が申し訳無そうに座っており、今日から彼が新しいスタッフだと紹介された。私より一歳下であったが、自信がなさそうに、「サワムラです、お願いします」と深々と頭を下げる様は、若いと言うよりも、幼く見えた。


 ヤマキのような希望は持っていなかったが、サカガミの前任者も女性の契約社員で、今回も同条件の補充があるのだろうと勝手に思い込んでおり、男性の正社員が回されることは想定外だった。面食らっている私に、上司は、目配せで室外に出るよう命じた。青白い彼は、心の病から復帰したばかり、医者から勤務は一日六時間以内と指導されていると説明され、「その点、よろしくね」と言われた。この会社の人間であるから、トイレやコピー用紙の保管場所といった基本を一々教える手間は省け、他の班員よりも年上ではあったが、彼らから仕事を振られても、「了解しました」と嫌な顔をすることはない。しかし、慣れてくると、サワムラの腰の低さは気詰まりで、私たちよりも一時間遅く出勤して、一時間早く退勤するのだが、朝に顔を出して「どうも、すいません」、夕方に席を立っては「どうも、すいません」と泣きそうな顔をして謝ってばかり、サカガミのように図々しいのも業腹ではあったが、痛めつけられた犬のようにおしなべて卑屈というのも、かえって気を回すことも多く、こちらの心の負担である。


 会社からは会食は控えるようにというお達しが出てはいるが一度切りで大分前のこと。命令ではないにしても曖昧な「お願い」は、否定はされていない以上は現在も効力を失ってはいないことになり、キタは、「やっても大丈夫なんですか?」と心配し、世間一般の自粛ムードを口実にやらないのも手か、とも考えたが、調べてみると他の部署は普通に飲み会を開いているそうで、そうなると、これまでの慣例を無視するわけにもいかないか? と諦めて、「やってるとこは、やっているみたいだし」と、いつものように歓送迎会を行うことにした。


 ヤマキが自ら幹事をやると手を上げたが、「サワムラさんに、なんて言えばいいのか分からないので、お願いできません?」と言われ、「普通に歓迎会なんで、出ますよね? で、いいだろう?」と返したが、「いや」「でも」「なんか」と渋るので、そんな風に言われると私まで不安になり、気軽に出欠の確認をすることが恐ろしくなり、彼がトイレに向かった機会を捉えて、自分もたまたま尿意を催したとばかりに隣の小便器に立ち、「テレビとか見ます? あんまり見ない? 私も、前ほど見なくなったんですけどね、でもニュースだけは、一応見なくちゃならないよなーとは思うんですが、相変わらず昨日は何人、今日は何人じゃないですか? 必要なのは分かりますけど、ちょっとうんざりしますよね? で、こういうご時世だから、やらないってことも考えたんですが、ただ、ね、こういうご時世だから、逆にやる必要もあるのかな? って考え方もあるじゃないですか? もしかしたら、とも考えるんですけどねー、でも、とにかく危ない危ないって言っていたら、なにも出来ないじゃないですか? 私達も仕事をしている以上、ただ一人で黙々と働いているだけじゃなくて、一緒に働いているわけじゃないですか? そうすると、一度くらいは、みんなで酒を酌み交わすのも、良いと思うんですよ。こういうのは、言うなれば形式・儀式で、面倒臭いと感じる人もいるけど、やらないとやらないで、何だか物足りないと考える人もいるからね。もちろん、こういう状況だから強制ではないし、出なかったとしても、それで、「あいつ、なんか空気読めねーな」ってことは、絶対ないから安心して。もちろん、出て欲しいけど、無理強いすることではないからね。後ね、アルコール飲めないとか、そういうのは安心して。うちの班では、イッキ飲みとか、そういうのはないから。飲めないなら飲まなくて、けっこう。単純に、同じ釜の飯を食うのは、チームの絆、と言えば大げさだけど、そういう時間を共有することで、まぁ、潤滑油にでもなるというかな? そんな感じ。もちろんね、さっきも言ったけど、もちろん参加しなかったらといって、仲間外れというか、あいつは協調性がないと陰で非難することはないよ。そこも安心して、いいから。それでね、来たばっかりで悪いんだけど、ヤマキさんが金曜日までなんだよ。急だからもう用事が入っていても仕方ないんだけど、彼女の出勤日の最後の夜に彼女の送別会をすることになって。ついでという訳ではないんだけど、君の歓迎会も一緒にどうかなー、と考えているんだけど。どうせなら、こういうのは大人数の方がいいでしょ? いや、もちろんね、さっき言ったように、急だしね、こういう状況だからね。時間が合わなくても仕方ないんだけど、まぁ、せっかくだから一緒に酒を飲むなり、ご飯を食べるなりして、気楽な馬鹿話でも出来たら、もちろん嬉しいけど、ただね、参加できるにしても、参加できないにしても、変に重荷に感じる必要はないから。どうかな?」と誘った。サワムラは、「ありがとうございます」と頭を下げた。「楽しそうですね、いいなー。でも、僕の病気にはお酒はダメなんですよ」と言ったので、「そっか、残念だな」と返そうとしたが、「お医者さんに相談してみます」と保留、翌日、「すいません、金曜日は、用事が動かせなくて」と断られた。


 「うん、そっかそっか、しょうがないよね、急だし。ごめんね、なんか。歓迎会は、また別の日にやろうね」と残念がってみせたが、内心では彼との酒席が回避できて胸をなでおろした。そのような気持ちを抱いていたのは私だけではなく、送別会にて、酒の入ったサカガミは、「私、あの人が来たら、スゴイ面倒臭いって思ってました」とあけすけに表明し、これから一緒に仕事をしなくてはいけない他の連中は口で同意はしなかったが、ウルシバラは静かに苦笑い、キタはわざとらしく聞こえない振り、ヤマキは遠慮なく大笑いした。


 サカガミは、「いいですよねー、ああいう人って、働かなくてもお給料って、もらえるんでしょ?」と、焼酎の水割りをあおった。キタは、「病気療養ってヤツ? なんか憧れるよねー」と付け足した。ヤマキが、「どれくらい出すんですか?」と私に聞いてきたが、「全額はもらえないぞ? ボーナスだって出ないだろうし」と答えたが、具体的な数字を欲し、納得してくれない。「知らないよ」と突っぱねると、ウルシバラが三分の二だと教えてくれた。
「えっ、そんなにもらえるの? いいよなー、家にいるだけで、それだけもらえるなんて、夢みてーだよ」
 妻子持ちのウルシバラは、「働かなくてお金がもらえたら最高ですけど、手当もボーナスもなくなったら、うちなんか、家族全員、餓死です」と笑った。


 噂では自殺未遂を引き起こすほどに追い詰められていたそうで、それでいながら会社に戻ってくるしかなかったわけで、休職中の給与は、逃げることを許さない桎梏のように感じられたが、そんなことを語ったところで理解されるはずはないと分かっているので、私も、「ボーッとしていたら、口座に勝手にお金が振り込まれるなんて生活、してみたいねー」と不労所得への憧れを語ると、キタが、「そうねー、朝もずっと寝ていられるし」と笑った。


 翌朝の起床時間を気にかけることなく夜更かし、目が覚めたからといって布団を飛び出ることもなく、テレビをつけるがバックミュージック代わり、寝転がったまま携帯をいじって、排尿や食欲といった生理現象に追い立てられるまで、無気力の楽園に居座り続ける。リモートワーク時と大差ない日常しか想像できず、私の夢は、死ぬまで遊んで暮らせる大金ではなく、パンデミックで既に叶えられたらしい。


 サカガミは、「でも正社員は、うらやましいよ。派遣で病気したら、一発で終わりだからね」と言ったので、ヤマキは、「旦那がいるんだから、いいだろ別に?」と口を挟んだ。
「まぁーねー」とグラスを傾けるが、氷しか入ってない。キタがテーブルのボタンを押した。
「あっ、すいません」
「転勤って、どこなの?」
「転勤ですか? どこなんだろう?」と、うそぶく。「はい、なんでしょうか?」と居酒屋のスタッフがオーダーを取りに来たので、「同じの」とグラスを掲げた。
「えっ、マジで言ってる? 知らねーの?」
「うん、聞いたはずなんだけどね。忘れちゃった」
「信じらんなーい、私だったら、絶対に忘れない。だってさ、これから住むところだよ? 今よりも寒いかもしれないし、逆に暑いかもしれない。そういうの調べておかないと、不安にならない?」
 ヤマキとキタは、サカガミののん気さを面白半分に責め立てたが、当の本人は、「そんな変かな?」と、運ばれてきた酒を飲みながら、聞き流している。もとより口数の少ないウルシバラは、自分の皿に移したホッケの身と骨を分離する作業に勤しんでいて、彼らの会話を、どう判断しているのか分からない。酒の飲み具合からして、サカガミが妊娠をしていることはないだろう。旦那が、どんな仕事をしているのか知らないが、やはり唐突な転勤は虚偽であり、単に仕事に倦んでしまったのか、ヤマキとの関係解消を目指しているのか。現在の職場を辞めるに当たり、彼女なりに私達へ配慮した結果、考え出した穏当な言い訳が、「旦那の転勤」なのかもしれない。週明けからの新しい派遣先でも、朝の気分次第で「体調不良」を発揮するといった、のんべんだらりとした勤務を続けるのだろうか。


 居酒屋のスタッフが、「飲み放題ラストオーダーになりますが」と言って、端末を構えた。ウルシバラが、「僕はお茶で」と言ったので、「もう一つ」と私も追随。サカガミとキタは、ラミネートされたテカテカのメニューを二人で見て、「これ、知ってる?」「分かんないです」と、楽しそうにおしゃべりしている。ヤマキは、「ビール」とスタッフに頼み、「二次会は、どうします?」と、なぜか気だるそうに言った。ウルシバラが、「僕は、帰らないといけないんで」と言い終わる前に、「ねぇ、私、一度、キタさんと二人だけで飲んでみたかったんだ」と、隣にいたキタの肩に頭を乗っけた。ヤマキほどにはサカガミのことを悪く言うことはなかったが、彼以上に、彼女のいい加減さに腹を立てていたキタは、酔った勢いで甘えてくる女性に一瞬だけ嫌悪感を隠せなかったが、まだ飲み足りないらしく、そして、どうせ最後という気安さもあって、「いいね、行こ行こ」と応じた。ヤマキは、「それじゃ、お愛想にします?」と提案し、肯定・否定、いずれの意見も出てこなかったので、「さっきのビールなしで、お会計お願いします」と、スタッフに言った。


 全員に促されて、サカガミが立ち上がり、「いろいろと足りないところがありつつ、皆様のおかげで、どうにか今日までやってこれました。ありがとうございました。こちらの職場で学んだことを、次の場所でも活かしていけたら」云々と、当り障りのない挨拶をした。店を出て、最後に、もう二度と仕事をお願いすることはないのだが、「また、なにかあったら、よろしくお願いね」と言い、サカガミにしても、もう二度と依頼されることはないだろうと自覚しているのに、「えぇ、また機会があったら、よろしくお願いします」と返した。


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