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くさったさかなの目をしてる(02)

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 奇妙に入り組んだ細い道に合わせて建つ背の低いアパートや小さな一軒家を経て、通勤通学用のバスがたむろするロータリーを横目に、頭上で走り出した電車の震動を感じながら高架下の改札から階段を上がりホームへ。マスクの隙間から漏れる呼気で眼鏡が曇る。駅員のアナウンスがあって、のぼりの電車がホームに滑り込み、ドアの前に控えていたわずかな乗客が下りるのを押し留めるようにして背後の老人が空席に飛び込む姿を蔑みながら黙々とサラリーマンや学生が乗り込む。車内では、細長く畳んだ新聞を読み、単語帳をめくり、ゲーム機に没頭し、何度もバッグから手鏡を取り出しては前髪を確認、携帯の小さな画面でアニメを見て、車窓を流れていく風景を眺め、女性の背に浮き出たブラジャーの線を凝視し、頭頂部から漂う匂いに顔をしかめ、傍らの女性のバッグが脇腹に当たるのを耐え、自信満々に語る同級生男子のホラに作り笑顔で応対し、青い顔をしてお腹をさすり、自分にだけ聞こえる音楽に肩を揺らし、咳払いを聞き取ってしまい苦い表情をあらわに、指先を画面上でくるくると回してメッセージを送る。西日暮里で降りた多くの乗降客たちは改札に吸い込まれていき、手にした携帯・パスケースを読み取り部に次々とかざして、エラーでバーが閉じれば後続は左右に分散して抜け出て、エスカレーターの左側に立って目の前の背中をぼんやりと眺める一方、空いた右側を忙しなく人々が駆け上がって行き、男も女も、老いも若きも、荷物があろうとなかろうと、暗黙の取り決めを遵守する足取りでもって構内を歩み、勢いのままに前進、隊列から外れ、逆流を横切り、もたつく先行を追い抜いて階段を上り、朝日に照らされたホームに出る。黄色い点字ブロックの前に整列した人だかりは、ドアが開き、車内も同じような人だかりを見ても驚きもせず、各々、隙間を見つけては体を押し込んで行き、後から続く乗客の為に奥へ奥へ進むが、電車の出発を契機にその場に留まって姿勢の確保を図り、手提げカバンを胸で抱き、つり革に手を伸ばし、ドア付近のポールに背を預ける。互いに顔を合わせないように体をずらし、時に向かい合ってはしまうものの気恥ずかしさはなく、まるで真正面に人がいないかのように目的地の駅に着くまで無表情を貫き通す。有りもしないエアポケットを強引につくりだし、携帯を操作すれば他の乗客に文面は丸分かりだと承知しているが気には留めず、乗客たちもどんなに珍奇な内容であっても知らぬ存ぜぬで過ごす。


 頭上に設置された液晶に駅名が表示されて、電車はスピードを落とし、ある者は降車の意思を周囲に伝える為、ドア方向にわずかな隙間を見つけて片足を踏み出し、ある者は巻き込まれてはかなわないと出入り口の導線から体を反らし、前後左右の動きに従いもせず逆らいもせず個々で居場所を確保、ドアが開くと外へ乗客が溢れ出て、空いた空間を目指してホームから人々が乗り込んでくる。出入り口付近からのプレッシャーは車内の隅々まで行き渡り、押し込められるか、弾き出されるか、ギリギリの危うさを維持したまま電車は再び動き出し、アパートの廊下、エレベーター前の天井の電灯が切れてしまっていることを思い出し、なぜ同じ階の住人たちは誰も対処をしないのだろうとむかっ腹、管理会社に連絡しなくてはいけないのだろうか、どうやって電話番号を調べたものかという思案をぶち切るように陸橋の下を通った瞬間、コンクリートの薄汚れた橋脚を背景にした窓ガラスに並んだ三人、年齢も性別もまちまちだが似たような不織布の白いマスクをしており、表情を彩る瞳は一応に濁っている。電車はゆるやかなカーブに入り、人々が遠心力に身を委ねる中で隣の男は意固地に根を張っており、不必要に体重を預ける形となって男性の肉体を感じ、不愉快になって視線を送れば、不可解にもパンパンに張り詰めたスカート生地を五本の指で撫でている。顔を上げてみると、窓には相変わらず三人の無表情な目が映り込んでいる。女体をまさぐる喜びを男は見出しておらず、自らの体を侵犯される悲しみ・怒りを女は抱いておらず、だからと言って双方から性の喜悦を見出すことも出来ず、その場には申し合わせた諦念が広がっており、胴元不在の八百長、視聴者のいないヤラセ番組、死の床での仮病に否応なく付き合わされたが、池袋に着くと、男の指は何の未練もなくパッと離れ、多くの乗客に紛れてそそくさと電車を降りていき、肉体の膨張に追いついていないグレーのスーツを着た女と取り残されてしまい、解き放たれたしどけない臀部を見下ろしていると、自分が代わりにつかまなくてはいけないのではないだろうかという一抹の使命感に、新宿に着くまで悩まされる。

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