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だれも語ろうとしない傑作「麻雀放浪記」のこと

この作品は1984年のモノクロである。監督和田誠。フルカラーに慣れた目からすればモノクロはとっつきにくいかもしれないが、見はじめれば色など関係ない。この映画の10年前、「ペーパームーン」が白黒で撮られている。ボグダノビッチ監督で、封切り当初から名作の誉れ高い作品である。新作でありながらクラシックという仕上がりだった。彼には名作「ラストショー」もある。「ドライビィング・ミス・ディージィー」や「キャバレー」「パルプフィクション」などもその種の完璧な映画である。
さらに9年前の65年、「シンシナティキッド」もモノクロである。これも傑作である。監督は名匠ノーマン・ジュイソン。ここ最近では、2012年にアカデミー作品賞を獲った「アーティスト」が白黒で、しかもサイレントだった。監督ミシェル・アザナビウス、彼は「あの日の声を探して」も撮っている.。かなりくせ者の監督である。

和田誠はイラストレーターが本職で、色遣いはお手のものである。しかし、モノクロにはすべての色を集めた深い味わいがあることを知っていたはずである。映画はサイレント、白黒の時代が長かったのである。その間に、映画的なさまざまな試みがなされ、財産として蓄積された。映画狂の和田がそれを知らないわけがない。
和田誠がモノクロにした本当の意味は、最後に検討したい。

映画評論家品田雄吉は、1984年は2人のアマチュアが撮った映画がダントツに光っていたといって、「麻雀放浪記」と「お葬式」(伊丹十三監督)を挙げている。小説家が映画を撮ることが流行ったことがあったが、ディレクターズチェアにそれらしい顔をして座っていれば、あれよあれよというまに映画は出来上がった。カメラ、照明、音響……いずれも百戦錬磨の現場のプロたちが世話を焼いてくれたのである。
俳優竹中直人も「無能の人」などいくつかの作品を撮っているが、同作で場面転換に窓辺の花をじっと写していたのには呆れてしまった。古典に通じているということなのだろうが、そこまでベタな映画愛など無用である(是枝裕和も「海街ダイアリー」などで多用しているが、こっちは様になっている)。北野たけしがすごいのは、そういう決まり事を一から否定することから始めたからである。

博打にカネばかりか女も命もぶち込んで、しかもさらっと生きるドサ健(加賀丈史が演じる)が主人公である。上着はつねに肩にかけ、足は雪駄である。その生き様に惹かれながらも、独自の道を歩もうとするのが“坊や哲”、真田広之である(原作者阿佐田哲也が仮託されている)。いわゆるビルディングス・ロマンの一種といっていい。
ストップモーションなどを用いながら、麻雀のインチキ技を丁寧に撮っているのが、当たり前とはいえ、映画のリアリティには欠かせないことである。黒木和雄が久しぶりにメガホンを取ったと評判になった「スリ」は、せっかくのプロの技を見せなかったことで、薄っぺらな映画になってしまった。フランス映画に「スリ」というのがあったが、よく内容を覚えていない。多少はスリの技を見せていたのではなかったろうか。

この映画は2つの魅力によってでき上がっている。女たちの気丈さと男たちのどこまでも一つことに淫する姿である。しかし、それは価値的にはいっしょのことで、どちらもそれしか選択のしようのない生を生きている。
上客を相手にする雀荘の雇われマダムが加賀まりこ。彼女が駆け出しの坊や哲に賭博の駆け引きや性のあれこれまで教え込む。薹(とう)が立っていて、年下の男を籠絡するのに十分な貫禄である。ぼくは「泥の河」(81年)における彼女を見てショックを覚えた口である。顔を白くし、襟を抜いて、平底船で客を取る女である。小悪魔としての彼女を見てきたぼくとしては、そぞろ哀れを催したのだが。

加賀は坊やといかさまを組み、稼ぎを上げる。店の切り盛りに抜かりがなく、常連に呼ばれて出張麻雀をすることもある。外人将校もいるその出張先で時間が来て帰ろうとすると、勝ち逃げするのか、と言われる。そこで本性を出して、腰を据えて卓を囲む面々を徹底的にやり込める。マダムの気の強さがよく表れているシーンである。
加賀が坊やに牌の積み込みを教えるシーンで、ちょっと残念なことがある。アップで撮られた彼女の手が、震えてギゴちないのである。なぜ和田は撮り直したりしなかったのだろうか。

大竹しのぶはドサ健にいいように利用されているだけに見えるが、あした女郎屋に博打のかたに売られようというのに動じる気配がない。かえってドサ健のほうに逡巡が見える。
途中で、大竹が「もう故郷に帰る」といなくなるシーンがある。探しに行くと、近くのガード下で一人ぽつねんと座っている。ドサ健は列車が上を通る枕木にぶら下がりながら、「帰らないでくれよ」と気弱な声を出す。
連れ込み宿で、娼婦になってくれ、と頼むシーン。「ウソでもいいから何か言って。ウソをいうときはいつも饒舌じゃないの」としのぶがたたみかける。ドサ健は、「真実だからほかは言えない」と言う。そこに蛾が飛び込んできて壁に張り付き、鹿賀が恐怖で動けない。平然と団扇で殺して、しのぶが意味深な言葉を言う、「そんなに怖いなら逃げればいいのに」。この男たちは逃げることができない。つんのめっていくだけだ。

女のあり方がすがすがしくもあるのに、男どもはクズばかり。ドサ健はやくざな生き方しかできない。左利きでパイを卓に叩きつける姿が惚れぼれするほどである。シャブを打ちながら他を寄せ付けない打ち手の出目徳(高品格)、悪に徹しきれない女衒の達(加藤健一)、戦地帰りのなかなかの腕前の上州虎(名古屋章)。ドサ健はいま売り出し中のいい男といった役どころで、いずれは出目徳の位置に替わろうと思っている。ドサ健のヤサの権利書としのぶの身請け先が、勝敗のままに行ったり来たりする。

少し映画の細部に入って行こうと思う。
冒頭は、戦火で焼け残った上野の町をカメラがパンするのだが、どう見てもミニチュアとわかる。ラストシーンの背後の町並みも、明らかにセットである。あるいは、坊やが加賀まりこと川辺を歩くシーンは、背後の川と2人の姿の合成である。テイストの統一のためにセット空間で撮ってしまおうという和田の拘りが感じられるが、成功しているかどうかは疑わしい。

上野の西郷像の脇の階段を下りてくる坊や、それを脅して金品を巻き上げようとするのが上州虎。そこが映画のスタートである。お互いが勤労動員先の顔見知りと気づき、さっそく賭場へとくり出していく。原作者の阿佐田哲也が博打で生計を立て、ガード下で野宿をしたのが上野である。戦後、浮浪者ばかりか浮浪児、街娼が集まった場所である。

叩きつけるような雨のなか、筵(むしろ)掛けの小屋のなかで膝つき合わせて一心にチンチロリンにふける男たち。坊やがドサ健の鮮やかな手口や運をめぐる冷徹な考え方に惚れ、のちに弟子入りを志願する。ドサ健の躾は、その道ならではの裏切りや騙しまで加味されて、坊やは一筋ではいかない世界にどんどんはまり込んでいくことになる。

とにかく役者がいい。加賀丈史には男の色気がある。ええ?! こんなにいい役者さんだったのか、と驚いたのを覚えている。名古屋章も如才ない男なのに博打に目がない男を演じて心に残る。女衒の達の加藤健一は人のことは冷静に見ながら、やはり自分も博奕の魔に憑かれている。出目徳という名代の博打打ちを演じた高品格は、他の作品を知らないが、これが最良の出来ではないのか。彼を得たことで、この映画が2段も3段もすごみを増したことは確かである。

連夜の修羅場で、突然、雀卓に額ごとぶつけて突っ伏す出目徳。すでにこと切れている。ドサ健は身ぐるみはぐのが掟だといって、持ち物から着ているものでまで取っ払ってしまう。それを呆然と眺める坊やと女衒の達。
出目徳の遺骸を運び、土手の上から転がすと、下に溜まった汚水に俯せの状態でおさまってしまう。ドサ健が、オッサンのように死にたい、とはなむけの言葉をかける。これは冗談でもなんでもないのである。
妙にうきうきした気分でヤサに戻ろうといつもの飲み屋にさしかかると、上州虎が「俺も入れろ」と声を掛ける。これがラストシーンである。この連中は飽くということを知らない。

上州虎がしのぶに言い寄るシーンがある。お前みたいな若い女には俺のような年寄りが合うんだ、そばにいてくれればそれだけでいい、愛してくれるのは慣れてからでいい、としみじみとかき口説く。襲われるのではないかと疑心もあったしのぶの体から緊張感が抜けていく。そのままにして虎は自分の部屋へ戻るのだが、この一連の流れはしみじみ味わい深いものである。

加賀まりこと坊やの初めての夜。一度は果てた坊やがまた元気を取り戻し、会話の最中にちょっとでも動くと、微妙に加賀が反応するシーンは、非常にエロチックなものである。坊やは元気ね、今度は私が充分楽しむ番よ、と言って上下を替えるのだが、そのセリフはちょっと臭い。今度は私がたのしむわ、ぐらいでいいのではないか。それはそれとして、この2度いたす、という設定は秀逸だし、その微妙な体の反応を表情と、ちょっとした体の動きで表現するのは、やはり大人の世界というほかない。
伊丹が「マルサの女」で山崎努に妙なことをさせている。電話で仕事の指図をしながら、女の股ぐらをいじるのである。伊丹という人は特殊なエロティシズムをもった監督だったが、“大人”のための映画を撮ったというのは、特記に値する。第一、処女作が「お葬式」である。そんな訳知りの人が最後は自殺だったなんて……。

意外なことにこの映画は男たちの愛情の映画でもある。上州虎は中年の恋を語り、出目徳は10年一緒の内縁の女をさして「なぜ俺といるのか分からない。男と女のあれもない。今日の勝負が終わったらケツを撫でてやろう」などと言う。ドサ健としのぶの愛は前述のごとし。「俺の女なんだから何をしたってかまわない。おめえらはそれほどに女を愛したことはねぇだろう」と啖呵を切るシーンもある。女衒の達にも、ドサ健と似た愛し方の女がいる(画面に登場しない)。そして坊やの一途の恋……ともするとすさんだ感じの映画になりそうなところを、これらの愛が救っている。

和田誠はこの映画のあと、4、5作あったと思うが、ぼくは食指が動かなかったので、見ていない。本作ほどの評価の映画はなかったのではないだろうか。ぼくは、古典もの、たとえば「鞍馬天狗」や「旗本退屈男」のようなものを彼なりのアイデアで撮ったらどうだったろう、と思うことがある。才気走った演出が見てみたかった。

さて、話は振り出しに戻る。なぜ和田誠は時代錯誤を承知でモノクロ映画など撮ったのだろうか。それは第一には映画史へのオマージュがあったろうと思われる。第二に、自分もそこに本作をもって列するという気概もあったろう。第三に、懐旧の色であるモノクロでしか、突き抜けたように生きる女や男は撮りようがなかったのではないか。新作にしてクラシカルだった理由はそこにあるように思う。
日本映画には悪人あるいは悪党をスマートに描いた作品が少ない。欧米にはふんだんにそういう作品がある。かつては鼠小僧次郎吉のような、あるいは清水次郎長のような義侠心のある反社会性のある人物を描いた作品が多々あった。そういう人物が映画から排除されてきたのは、残念でならない。和田誠にそういう人物たちの復権の意思があったか明瞭ではない。しかし、そこへ傾斜していく自分のことは十分に意識していたのではないか。その熱量が、この映画からは伝わってくる。


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