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映画「卒業」が隠そうとすること


この映画は1967年に撮られている。やはり傑作だろう。68年のアカデミー賞の候補はものすごいラインナップで、本作と「俺たちに明日はない」「夜の大捜査線」などが作品賞、監督賞候補に挙げられ、女優賞には「暗くなるまで待って」のヘップバーンがノミネートされている。まさに歴史を画する年で、結局、作品賞は「夜の大走査線」(監督ノーマン・ジュイソン)、監督賞は本作の監督マイク・ニコルズが獲っている。「俺たちに~」のフェイ・ダナウェイが女優賞を獲っていないのが不思議である。「招かざる客」(スタンリー・クレイマー監督)のキャサリン・ヘップバーンが受賞者だが、臈たけた白痴の美しさは、フェイ・ダナウェイにしか出しえないものだった。何か奇跡とでも呼びたくなるような演技だった。

70年封切りの「いちご白書」は、コロンビア大学の学生運動(1966~68)を扱っている。コロンビア大はニューヨークにある。「卒業」の主人公は東部の大学生で、卒業を目前に21歳の誕生日をカリフォルニアの実家で迎えるという設定である。東部のどこの大学かは明示されない。ヒロインのエレイン(キャサリン・ロス)が通うのがカリフォルニア大バークレー校である。現在でも大学ランキングで常に上位に顔を出す公立校である。64年に学園闘争が起きているが、公民権をめぐるものだったらしい。70年代初頭まで大学は揺れ続けたらしい。69年にウッドストック(N.Y.)が開かれ、ベトナム戦争に端を発するフラワームーブメントが盛んだったのも、その頃のこと。67年に製作された「卒業」に、嵐の渦中にあった大学の痕跡が見えてこない。

主人公ベンジャミン(愛称ベンジー、ダスティ・ホフマンが演じる)が写されるのは正面と横顔がほとんどで、正面のときはボーッと魂の抜けたような表情、横顔は移動のときである。これは全篇で繰り返される。
やや猫背気味の姿勢で、短いズボンを履いた背広姿の主人公が、吸着した地面から足を引き離すような歩き方をする。感情を失っている、あるいは失いつつある、ということの暗喩である。ホフマンズ・ウォーキングとでも名付けたい歩き方である。
身体が硬張っていて、つねに緊張が抜けない。冒頭の飛行場の動く歩道での横顔のショットからも知ることができる。肩に力が入っていて、目線はじっと前を向くが、何かの拍子にすっと横を向き、また素早く前に視線を戻す。まるで神経症のような動作である。彼の緊張は、ミセス・ロビンソンとの交情まで続くことになる。
飛行場の出口で待ち人に手を振るベンジー、そして次が水槽のまえで正面を向いて座る彼の姿である。この映画ではこの水槽をうまく場面転換に使っている。彼の顔の左側に小さな黒いオブジェが見える。ウェットスーツを着込んだお人形が水槽に酸素を送り込む管に取り付けられている。これも後で小技として効いてくる。

ベンジャミンは陸上のスター選手で、新聞部の部長であり、成績優秀らしく奨学金資格も得ている。その彼が卒業をまえにカリフォルニアの実家に戻ってきたという設定である。そして、卒業前祝いパーティが開かれる。お客が祝いに集まっているのに自分の部屋から出て来ようとしない息子を父親が連れにくる。「どうしたいんだ?」「ぼくは……違うものになりたい(I want to be different.)という会話を交わしたところで母親まで迎えに来る。ベンジーの部屋から出てすぐ右側の壁にピエロの絵が飾られている。ぼくが劇場で見たときは、この絵が掛かっていたが、その後、名画座などで見ると、カットされていた。ピエロの絵はモノクロで、怒りを含んだ顔をして、髪の毛も逆立っている。余りにも演出が露骨だから、カットしたバージョンもあるのかと思ったものである。

両親は大学院に進むことを期待し、ベンジーを幼い頃から知っている人たちは卒業後、会社勤めすることを当然と考えている。父親の知人は「ケミカル」とだけ言って、ベンジーを見つめる。彼は意味が分からず、尋ねると、「これから有望なのはケミカル。これは君と私だけの話にしておいてくれ」と肩を叩いて、部屋に戻っていく。ベンジャミンを囲む両親を含めた白人ミドルクラスのスノービッシュな感じが、集中的に描かれるのが、このパーティのシーンである。
その後も、両親そしてその知人たちの発する言葉は、どれも紋切り型のものばかり。ロビンソン氏は「君はもっと男として遊ばないとだめだ」式のことを言うが、それは夫人がベンジーに不倫を仕掛けた後の会話である。夫人もそこにいる。ベンジーはそういう体裁だけを繕った世界から抜け出せずに、焦りを覚えている。
あとで誕生日のアトラクションとして、両親のアイデアでスエットスーツに身を包み、アクアラングを付け、銛を持ち、自分の家のプールに入るシーンがあるが、映像は水中メガネの内部から見たもので、音もベンジーの吐くシュワーシュワーしか聴こえない。彼の閉じ込められた世界観をよく表している。
パーティの輪から抜け出そうとしたとき、ちらっとソファに腰をかけ、タンブラーグラスを持ち、優雅に脚を組むロビンソン夫人が映し出される。ここはとてもエレガントでショッキングな場面である。夫人のターゲットは決まった、という感じである。

この映画では、水がいろいろな仕掛けに使われている。ベンジャミンは自分の部屋に戻り、熱帯魚の入った水槽を見つめる。まるで自分がそこに閉じ込められているとでもいったように。スエットスーツに銛を持ち、水中に漂うベンジー。それをじっと捉えるカメラ。きらきらと太陽を反射するプールの薄青い水。水中からウォーターパッドに飛び乗ろうとすると、そこは夫人の身体の上……逢引のホテルの部屋と自分の部屋、そしてプールのシーンを往還することで、エレインが現れるまでの1週間の時の移ろいを描く。初めてこの映画を見たとき、うまくこのシークエンスを理解することができなかった。
ぼくは夫人とベンジーの関係のこなれ方(すでにして倦怠でさえある)から、もっと長い時間をコンパクトに演出したものと思っていたが、設定は1週間のアバンチュールなのである。この映画に瑕疵と呼ぶべきものはごく少ないのだが、この部分はクエスチョンマークが付く箇所である。刺激からアンニュイに至る男女の関係が見事に描かれているがゆえに、もっと実時間が過ぎているように見えるのだ。しかし、期限は一週間なのである。かつて同じ高校に通ったエレインがバークレーから戻ってくるまでが。

劇の進行に話を戻すと、自分の部屋で水槽を見つめるベンジー。部屋は明かりを落としていて、薄暗い。それを水槽のこちらから撮っている。そこにドアが突然開いて、光がさーっと差し込み、シルエットとなって立っているロビンソン夫人(後年、リュック・ベッソンの「レオン」に扉を開けてサーッと光が満ちるシーンがある。天地創造に近い)。あなたの心配なのは女の子のこと? と尋ねられ、ベンジーは違うと答える(性的な問題を主テーマにしたのが、ニコルズ監督の「愛の狩人」)。クルマで家まで送ってほしいと言われ、クルマのキーを渡そうとすると、運転ができない、と夫人ははにかんだ表情をする。ベンジーが仕方なく承諾すると、夫人は表情を厳しくし、水槽目がけてサッとキーを投げる。ワイシャツの袖をまくり、鍵を取ろうとするベンジー。もちろんこれもガラスのこちら側から撮られ、夫人の姿はドアの近くにシルエットとなって見えている。ベンジーはここでほぼロビンソン夫人の罠にかかったといっていい。鍵を投げることを思いついた演出もすごいが、夫人の表情がさっと変わるのも怖いくらいだ。おそらく名優アン・バンクロフトの考えた演技であろう。

ホテルでのコメディタッチの演出が、冴え渡る。もしかしたら、ここらあたりが監督のお得意なところなのかもしれない。いわゆるシット・コムといわれるものである。ベンジーがホテルから夫人に誘いの電話を入れる。1時間で来る、と彼女は即決で言う。ホテルの開閉ドアを開けて入ろうとすると、結婚何十周年の祝いなのか白ずくめの老夫婦が次から次と出てくるので、ベンジーはドアを押さえたままでいる。その波が終わってさあ入ろうとすると、今度は2組の結婚衣装の男女が彼を抜いて駆けこんでいく。ここに老若のカップルが描かれ、彼がそのどちらにも属していないことを暗示する。こういう演出は、さすがと思う。そして、ミセス・ロビンソンもまた帰属のはっきりしない中年の倦怠を抱えている。

ベンジーは夫人のために部屋を取ろうとするが、ポーターに魂胆を見透かされているような気がして、それを言い出せない。ポーターから「シングルマン?」と聞かれ、「ええ」と曖昧に答えると、「シングルマンパーティはあちらです」と言われる。行ってみると、「シングルマン」というファミリーのパーティであることが分かる。小ネタの連続である。ラウンジバーで飲み物を頼もうと指を鳴らすが、ウエイターは通り過ぎる。飲み物をストローから飲んでいると、そのガラスのテーブルに到着した夫人が逆向きで映る。もちろんベンジーも逆さまである。こういう演出も、見事というしかない。

ホテルの部屋に入ってからも、小ネタは続く。ダスティ・ホフマンのアイデアもだいぶ入っているらしい。煙草を吸う夫人に突然キスをして、終わると溜まっていた煙がフッと吐き出されるところや、ベッドの縁に座りストッキングのしみでも取るのかこすり合わせる仕草の夫人、そこにまた即物的にホフマンが後ろから乳房を掴むなど、彼のアイデアが生かされたらしく、現場は笑いの渦だったとか。ストッキングを揉むアン・バンクロフトもすごいけれど。
娘エレインのことで喧嘩になり、部屋の右上隅でランニングシャツ姿から背広に着替えたホフマン、まだベッドに座っているブラジャー姿の夫人は左下隅。やや俯瞰で撮っている。どうにか仲が戻り、ホフマンはまた右上隅でトランクスとソックス姿になり、左下隅で夫人は履いたストッキングを脱ぎ、気だるげに投げる。そして、もう一枚もその仕草で投げる。きっとこの後のセックスは、以前の刺激を取り戻すことは不可能だろう。先に男女の倦怠感を言ったが、それがこの仕草にものの見事に表されている。

なぜ夫人は娘と絶対に付き合うな、とベンジーに言うのか。彼は、ぼくが劣っていて、彼女に相応しくないからか、と問い詰める。ここは冒頭からの設定、ベンジー=エリートという図式からいえば、違和感のあるところである。
とうとう夫人は、そうだ、と答え、さっきの右上隅、左下隅の構図のシーンになるのである。ぼくは何か本能的な恐れのようなものを夫人はもっているように見える。単に性の倦怠をまぎらわすためにベンジャミンをたらし込んだわけではなかったのではないか……。
あるいは、中年の女はベンジーにとって通過点でしかない、と読み切っていて、若くきれいな女性が出てくればすぐに気移りすると知っていたからか。しかし、それではエレインである必要はない。ぼくは母娘で同じタイプの男に惹かれてしまう、という説を推したい。そうじゃないと、その後ベンジーがストーカーまがいにエレインを追いかけ回す動機が見えないからである。運命の人としてのエレイン。母親はそれを予感、予知できたのである。

エレインを追いかけてバークレーにアパートメントの一室を借りたベンジー。そこの宿主(ノーマン・フェル)には鼻を鳴らす癖があり、ベンジーのことが気に入らなくてしょうがない。「扇動者か」と尋ねたりもする。この映画で唯一、学生運動の匂いがするシーンである。

マイク・ニコルズのこの映画の狙いはどこにあったのか。怒れる若者たちの背後に、あるいは基盤にあるものを撃とうとしたのではないか、というのがぼくの仮説である。嵐が学内に吹き荒れた時代にこのノンポリ映画が広く受け入れられたのは、底にやはり既存の社会への批判という企みがあったからではないか。劇場に足を運んだ人たちは、エンタメの趣向の背景に強烈なスノービッシュ批判を感じたはずである。澱んだ、紋切り型の、不倫さえちょっとしたゲームにしか過ぎない、アンニュイな生活を送る白人ミドル・クラスへの巧妙な批判。「何か違うものになりたい」と願ったベンジャミンが勝ち得たのはエレインという素敵な女性だが、はたして2人は夫婦となって、親たちと同じ陥穽にはまっていく可能性はないのか。くり返すが刺激の強いものは、長続きがしない。

マイク・ニコルズはその後、問題作「キャッチ22」「愛の狩人」を続けて世に放つ。ぼくはどちらも封切りで見ている。しばらく音沙汰がないな、と思っていたときに「ワーキングガール」がスマッシュヒットする。時代の感性を捉えて、映画としても楽しめるものにし、テーマが実は深い、というのは至難の技である。彼が後半に鳴かず飛ばずだったのは、ある意味、致し方なかったのかもしれない。彼ほどの才人でも限界がある、ということである。


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