スマホの中に住む人の話【#教養のエチュード】

スマホにはお気に入りのカバーをかけている。ふわふわのファー。テディベアを思い出させる手触りが大好きで、何もなくてもすりすりしてしまう。便利+可愛い、そんな大切なものだから、わたしは携帯をいつも手元においている。
昼の休憩。ランチが終わり、あと少しで午後の始業時間。この短い時間で、さささっと色んな情報をチェックすることにしている。子供ではあるまいし、職場はスマホ禁止ではないけれど、このフロアで仕事中はおおっぴらに携帯の画面を見てる人なんてほとんどいないのだ。仕事に備え、私は画面を下に向け、ふわふわが上になるように引き出しにしまう。親指でするりとスマホの背中をなでるのも忘れなかった。引き出しを閉める瞬間、一瞬だけ手を止めた。ちょっと聞き慣れないかすかな音がしたような、そんな気がして。でも、一緒の箱にしまってある、他の可愛いもの達がぶつかり合ったのかも知れないし、もしかしたら引き出しのローラーが引っかかっているのかも知れない。そう思った私は、右手でパタンと締めて午後の仕事に取りかかった。

その日の夕方から、そのスマホからかすかな音がしてくるようになった。気にしないようにしていたけれど、認めないわけにはいかない。かすかに、鈴のような音が鳴るときがある。これは「ソ」の音だ。わたしは幼いころから音楽に全く興味がなく、何も習いごともしてないのに、不思議なことに絶対音感だけは持ち合わせていて、たまにうらやましがられることがある。確かに「ソ」の音。何かの拍子に、今日のスマホからはきれいな音がしてくる。着信音のような機械的な音ではなく、鈴のような、オルゴールのような、響いた音。はじめは不思議で怪しんでいた私も、その音をが鳴るのを少し楽しみに待つようなったのは時間の問題だった。
そんな日が3日ぐらい続いただろうか。驚いた。違う音が鳴り始めた。これは、「ド」。同じようにランダムに鳴ったりもするし、ごくたまに5度の和音を同時に鳴らすときもある。不思議な感じだけれど、落ち着く和音だ。それにしても、スマホから音が鳴るなんて、これはどういうことだろう。

着信音とは全く関係なく、私のスマホは音を鳴らすようになった。最初は「ソ」と「ド」。それから一週間もしないうちに、「ミ」と「ラ」を鳴らすようになった。
わたしは、友人にスマホから音が鳴るということについていろいろ聞いてみたかったし、話したかった。だってこんなこと信じられない。最初は不思議で少し楽しんでいた節もあったけれど、やっぱり気味が悪い。でも結局、知り合いに話すのはやめることにした。これも不思議なことだけれど、私と言葉を交わしている最中に横のスマホが音を鳴らしても、友人達はだれひとり何も言わない。気づいてもいないみたいだからだ。この友人達の姿を見て、携帯ショップに修理に持っていく考えも捨てた。きっと窓口のお姉さんなりお兄さんなりに「変な人」の烙印を押されるのがオチだろうから……。
そんなこんなで私が頭を悩ませている間に、響いてくる音はどんどん増えていった。まだ聞いていないのは「シ」の音。スマホを手にいぶかしがっていた私も、はやく全音階聞いてみたいという気持ちがあったことは、認めないわけにはいかない。

全ての音が鳴るようになり、私は次第にその音たちを自然なこととして受け入れていった。柔らかく響く不思議な音。それらの音は耳を通り越して胸に響いてくるようだった。

しばらくして私がその音や和音の響きを楽しめるようになってきた頃、またスマホに違和感を感じ始めた。画面がおかしい。特定の言葉が消えていく。消えていったあとからかぶさるようにして音が奏でられている。音が鳴り始めてから、こんな不思議な現象にすっかり慣れていた私は、もちろん修理に出すなどという考えはみじんも浮かばず、そのメロディーを追いかけていった。普通のメロディーではない、これにはなにか意味があると直感的に考えた。そこからは早かった。音の組み合わせに意味がある!最初は簡単な「おはよう」「おやすみ」からはじまって、「おなかすいた」「ちょっと寒い」などと、胸に響く音が直感で分かっていく。私のスマホから文字はどんどん消えていき、どんどんメロディーを奏で、そのメロディーの意味を読むことができるようになっていた。そんなことを隠れながら一人で没頭している私の周りからは、人が少しずつ離れていった。それでも私は楽しかった。

後から振り返ると、その頃には気づくべきだった。私には仕事以外にやり取りする人も少なくなっていたから、こんなにたくさんのメッセージが来ることがおかしいのだと。
文字の消えたスマホで、必死でメロディーを読んでいた私はある日、このメロディーがどこかから送られてくるのではなく、スマホ本体から発信されているんじゃないかという思いが頭をぐるぐる回り始めた。
こちらからメロディーを送信するのは勇気のいることだった。私はほぼメロディー語は習得していたけれど、こちらから相手に働きかけるというのはまた話しが違う。中学校から勉強している英語だって、ある程度聞き取れて笑顔でうんうんと相づちは打てても、こちらの気持ちを伝えるなんてすごく難しいことだっていうのは誰だって分かってくれると思う。それに、この場合、スマホに向かってメッセージを送るなんてこと自体、この自分でさえもおかしいってことは分かる。けれどももう、ここまで来てしまっている。毒を食らわば皿までの気持ちで一言「元気ですか?」と送った。

返事を返してくれたおじいさんとは、その後も仲良く交信している。わたしからもどんどんメロディーを送っている。私のスマホは全く文字がなくなってしまった。正直たまに、少しだけ……困ることもある。でも、文字を復活させたらそのおじいさんは私のスマホから出て行ってしまうしかないみたい。アイルランド人だという、普通なら言葉の通じないこのおじいさんとこんな風に話せるのも、このメロディー語があるからだし、私はそれをとっても楽しんでいる。
実はいま、他人のスマホに住んでみないかって誘われてる。私が他の人のスマホに住んでその人のスマホに音を鳴らしたら、その持ち主もメロディー語を覚えてくれるかもしれない。そうやってメロディー語で世界中の人と話せたらいいなって夢が膨らんでる。


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