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現代アートの扉が、わたしの前で1ミリ開いた

先日山を歩いていると、けもの道でもない、人の道でもない道を見つけました。少し進んでみると、その先にはむき出しのトイレがありました。当然使われていないから、トイレというより便器と言った方がしっくり来ます。
そのおかしく不思議な光景に、つい声を上げて笑ってしまったのですが、おかしいというのと同時に、どうしてもその風景がなにかしらの印象を私の胸に残したので、それがひっかかって。

というのもその便器、私にはとても陽気に、そしてとても楽しそうに感じたからなのです。そう目に映ったというより、そう感じたという方がやっぱり近い。
便器というのはその目的上、人工の光に照らされることはあっても、太陽の光にさらされるということはまず無いといっていいでしょう。どこかの国に開放的なトイレが存在したにしても、それだって360度むき出しというのは・・・そうそうないですよね。

なのに、この便器は、いまここで何ひとつ遮るものも無く太陽の陽を浴びている。いわば、特別待遇とでも言えばいいのでしょうか。その待遇に、便器がとてもご機嫌な感じでそこにいる。ただでさえ、肌寒い日に太陽の光を浴びることはとても気持ちのよいことなのに、そんなことが出来る便器は自分だけ。そして周りには誰もいない。そんな嬉しそうな感情が伝わってくるような、そこだけとても楽しげな空間というように、私の目には映りました。

ほほーーー。これか。これなのか。
と、わたしは現代アートの目指すものが何となくわかったような気持ちになりました。
当然あるべきものが、想像と違う形で目の前に現れると、脳の中で認知のずれが生まれるのが現代アート。それはわかってる。わかっているけど、それを生じさせるものがいわば現代アートな訳だから、思考と現実のずれが生じている「現代アート」というものを目の前におかれても、ずれを生じさせることが目的であるが故に、自分の中では結局ズレは修正されてしまうのだ。分かりにくくて申し訳ないのだけど。

なのに、こうやって現実に「ぽん!」とこういうものが目の前に現れると、新鮮におどろいてしまう。
そうなのか、これを目指しているのか現代アートは。つまり、わたしが「脳の中で認知のズレが生まれるのが現代アート」と身構え過ぎているという訳なのですね。この認識を私から取り除くのはずいぶん難しいとは思いますが、何となく便器君につられて、自分も嬉し楽しの気分になったひとときでした。

ほんとうは、ごきげんな便器君の写真を掲載したいけれど、作品ではなく現物ですのでさすがに自粛。遠目に見た彼の写真にします。この写真だと、ご機嫌具合はあまり伝わらないのが残念です。

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