僕は書けない
僕は文を書けない。
いつも書こう書こうと思う。書くネタはすぐに思いつく。靴に関しても書きたいし歴史についても書きたい。特に今は大相撲がタイムリーで歴史的にも熱い展開が繰り広げられている。あれも書こうこれも書こう。ネタだけが溜まっていく。
書いて表現することは好きだ。生徒の頃、作文の課題を与えられて書けないことはなかった。表彰だってされたこともある。しかしそれは本当に自分で書きたかったことなのかと思い返すと、そうではない。
書きたい。自分の言葉で表現したい。初めてそう思った。そう思った瞬間、書き方がわからなくなった。僕は文が書けなくなったのだ。今まで書けていると思っていた行為は、課題に対して期待されている“答え”を自分の言いたい事のように信じていただけだった。
自分の文は嫌いだ。くどい。そして書きたいことを思い浮かべると必ず知識に穴がある。19で何事にも精通している事などそもそもありえないのだが、好きなだけで勉強もせず全てを知っている気になっていたことを痛感させられる。これを、この痛みを、僕はどこかで求めていた。求めていた体験ができただけでも学生になってよかったと心の底から思う。挫折、一つ一つの悔しさ、絶望、無力感、全てが僕を苦しめる。この苦しみはどこから来るのか。それは自意識の高さからだ。どんなコンプレックスもそのままで愛してくれる人はいるだろう。しかし自分で自分を愛せない。
この時期は皆プライドが高い。自分自身は謙虚だと思っているが若者は概して自意識が高い。なにかことがあればすぐに「終わりだ」と思う。何が「終わり」なのか。何事もそう簡単に終わらない。経験が乏しいため、壁にぶつかるとすぐに終わったと思う。簡単に終わる前に、その終わりだという気持ちを繰り返すことによって、「終わり」の正体を言語化することでプラスの体験になる。「文を書くのではない、恥をかくのだ」この言葉が思い出される。恥をかくのは怖い。でも、書けないのに昔は書けたと息巻くようになるのはもっと怖い。恥をかくことで書ける何かがあるのなら、進んで恥をかこう。
高い高い鼻っ柱を何度でも折り、治癒を繰り返すことで簡単に折れない鼻となる。再建できるかどうかは環境次第だ。しかし折れた分だけ強くなる。少し低くなったって日本人はそう変わらない。
だからどんなに絶望しようが苦しかろうが僕は単語を繋げてみる。文が書けなくても単語を書いてみる。ぐちゃぐちゃの泥をこねくり回し、汚くても歪な形でも泥団子を作ってみる。粘り強くこね回せば丸くなる。諦めずにこすり続ければ泥団子でも玉になる。
しかし光ったまん丸の泥団子が作れた頃には「泥臭い文字は嫌いだ」「泥団子じゃ腹は膨れない」とペンでもち米を炊き出すのだろう。
上を見ればキリがない。キリがないからこそ楽しい。
書けないと言いながら書いている。この矛盾は書けないことからの脱却への決意表明だ。
しかし、
今日も今日とてやっぱり書けない。一生書けない。
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