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お酒の変遷

「歌は世に連れ、世は歌に連れ」なんて言葉がある。世の中の移り変わりの事を言ったものだ。今年63歳になるお婆さんのわたしのお酒の想い出。

もの心ついた頃にテレビや新聞で目にしたお酒のコマーシャルのフレーズは「トリスを飲んでハワイに行こう!」だったかな…。昭和三十年代半ばあたり…。

両親の実家へは、盆や正月に親族がそれぞれ集まる。戦前・戦中世代の両親は、国の「産めよ増やせよ!国力増進」の政策で兄弟の数が多い。両親とも7人兄弟の生まれであった。だから親族の集まる宴会は盛大\(^_^)/。
ちゃぶ台をたくさん並べて、食卓に置かれていたのは「茶色い瓶」のキリン・ラガービール。お子様には三ツ矢サイダー(瓶入り)。

高度経済成長期の昭和の時代。暮れのボーナスがでてお正月が来る準備をするときは、サザエさんではないが、三河屋さん(我が家の酒屋はだるま屋さんと言った)の御用聞きに、いつもは2級酒だけどお正月だから奮発をして特級酒の日本酒。キリン・ラガービールと三ツ矢サイダーをそれぞれ1ケース。なんて具合に注文をだしていた。

父にはわたしと妹と二人の娘がいる訳だが、自分が小学生の頃、父がよく「富久娘(ふくむすめ)」という日本酒  (一升瓶) を晩酌に美味しそうに飲んでいた姿を覚えている。
父の弟にあたる私の叔父さんが家に遊びに来るときは、お土産に母と私たち子どもには、お洒落なショートケーキ。父と叔父さんは、ウィスキーを飲んでいた。

月日は流れて、私が二十代になった頃、歌人(短歌)の俵万智さんの「サラダ記念日」という歌集がベストセラーになった。
その歌の一首に「「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの」がある。

自分が水泳指導員の仕事をしていた時は、アルバイトの大学生達と忘年会をした。宴席でみんなにお酌をして回ったのもキリン・ラガービールの瓶ビール。

バブル経済がかまびすかしかった時代、大手生命保険会社の妹の会社はアサヒスーパードライのビール会社をご贔屓にしていた。
ちなみに父が定年まで勤めた財閥系自動車会社はキリンさん派であった。

Jリーグのサッカーが発足して、日韓ワールドカップが開催された頃だったかな、新横浜のスタジアムのちかくを通ったら「ハイボール」ありますの看板を見かけた。
そう言えば若い頃に「コーク・ハイ」なんてのも流行ったなと、ふとその時思い出した。

沙菜子お得意のパソコン通信のユーザーさんの中にはホッピーに郷愁を感じるという人がいた。

昼は喫茶店で夜はお酒も提供するお店で、自分が一人で飲んだことのあるお酒はカクテルのジンフィズ。直木賞作家の山田詠美さんの本の中にジンのお酒の話がある。

でもまあ、24歳の時には童顔のお嬢さんだったから、六本木のテレビ朝日の近くに当時あった「放送作家教室」の講義のあとのネルソンの飲み会は午後10時には退席したし、日産ビルの中にあったカルチェの喫茶店にはいったけど、地下のラーメン屋さんで、ジョッキのビールを注文しようとして店主に止められたこともあった。

一番最近のみんなでお酒を楽しんだ想い出は、六十代のおじさん&おばさんで小田原・酒匂川の花火大会に行って、一番小さいサイズのキリン一番搾り 生ビール 135ml 缶 を持っていって、みんなに河原で振る舞ったこと。

笑顔のお酒は楽しい!

#いい時間とお酒



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