必死に頑張っても、その先はわからないんだ。

高校受験のときに、必死に時間をかけて勉強をした。空いてる時間のほとんどを勉強につぎ込んで、息抜きの時間も勉強に集中するための息抜きの時間だった。そうやってできる限りの時間を勉強につぎ込むことで、受験に合格できると思っていた。

大学受験のときもそうだった。毎日朝7時半ごろに学校へ行き、授業が始まるまで自習をした。授業が終わっても、塾へ行き、22時まで机に向かった。土曜日も、日曜日も。毎日勉強時間を測り、10時間を超えることを目標にしていた。そうすることで大学受験に合格できると思っていた。

結果的に大学受験も高校受験も合格した。大学受験はセンター試験後の志望校判定Cくらいのところから合格した。どちらもとても嬉しかった。そして、僕の成功体験となってしまった。

しかし、大学受験に受かったのは必死こいて勉強したからではない。塾の先生の教えてくれた英語長文の読み方を習得したからだ。毎朝7時半に学校に行ったからではなく、小論文でこういう考えのもと書いたら高評価をもらえると学校の先生が教えてくれたからだ。

要するに、膨大な時間のなかで要点を抑えることができてたから、僕は大学に合格することができたのだ。半分の勉強時間の中でも、要点を抑えていたら合格するし、それができていなかったらどんなに頑張っていても不合格になる。


’’努力は報われる’’という言葉があるが、その言葉は正しくない。正しい方向にした努力だけが報われる。

林先生がいつかこんなことを言っていた。努力は報われる。という言葉は理想でしかない。適切な時期に、適切な方向でなされた努力のみが報われる。むしろ、結果はなされた努力の終着点であって、どのような努力であっても、その地点につくために行われた努力という点においては正しいのかもしれず、そういう意味ではどんな努力も報われたというのかもしれない。

いま、就職活動という言葉が耳のすぐそばまで音を立ててやってきたときに、ぼくは正しい努力の方向が分からなくなっている。正しくいうのであれば、どの方向に努力をすれば、正しかったと思えるのかが分からなくなっている。どの道に進んだら、この道を選んで良かったと思えるのだろか。そんなことをいつも考えてしまう。

これまでちょっとだけやった就活の経験のなかでぼくが思ったのは、就活における正しい努力とは企業研究を進めることでも、自己分析をすることでも、夏に何十社というインターンシップに応募することではなく、それらを通じて自分がどんな風に生きたいかを考えることなのではないかと思う。

そしてそれを理想ではなく、現実として考えることだ。それは、就職前にどんな理想を描いていても、どんな仕事に憧れを抱いていたとしても、その仕事を自分ができるかどうかは分からない、そしてほとんどの場合、自分の力ではどうすることもできないところでそれが決まる。

ならば、”○○になりたい、これをしたい”ではなく、”どういう風になっていたい”と考えるほうがいいのではないだろうか。そのほうが自分で決められるものの余白が大きい気がする。また、状況にあわせて柔軟に捉えることができる。○○になりたいというより叶う確率が大きく上がる気がする。

今の世の中は変化が激しく、今あるものが5年後、10年後、20年後に当たり前にあるとは限らない。だからこそ柔軟な考え方が必要だと思う今日この頃だ。

近くにいて欲しい人、欲しい楽しみ、こだわりを持ちたいポイント。そんな自己解決する幸せの中から考えてみようかと思う。

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