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ある瓦斯灯の下で君を想い唄う    連載4-2(10) 高北謙一郎

手にしていたボールをこちらに投げて寄越す。  

慎重にそれを受け止めると、戸惑いとともに訊き返す。どういうこと? 

あの花魁は特別なんだ。彼はすぐに応えた。特別だってことはあの楼閣を見れば一目瞭然だろう。花魁はあの建物にひとりで暮らしている。そう、あのとんでもない楼閣は花魁ただひとりのために建てられたもんだ。遥かむかし、俺たちが生まれるよりもずっとむかしのことだ。花魁のために多くの信奉者が金を積んだ。家財を投げうった。そもそも当時そこは色町でもなんでもなかった。まずは花魁のために建物が造られ、その周りにおとこたちが暮らした。おとこたちが暮らす場所に、別の大勢のおんなたちがやってきた。そこはやがて色町となった。つまりは、花魁は花魁にして花魁にあらずってことだ。今でもあのおんなが客をとることはない。何人かの例外が謁見を許されるってだけのことだ。まぁ言ってみれば、花魁のために富みも名誉も棄てちまった連中のことだ。あの美しさに魅せられたが最後、その呪縛から抜け出すのはむずかしいだろうよ。

彼の言葉にどこか奇妙なものを感じたけれど、それがなにかよく判らなかった。黙ったままにひとつ頷いてみせる。なにより彼女が特別だってことは、充分に理解できた。彼女のためにすべてを捧げようとするおとこたちがいることも、充分すぎるほどに判る。

手にしていたボールを再び彼の方に返す。彼はそれを受けると、くるりとぼくに背を向けて、遠くのゴールにシュートを放った。ボードに跳ね返ることもなく、リングに弾かれることもなく、それは吸い込まれるようにネットを揺らした。

ボールは何度か床でバウンドを繰り返し、やがて止まった。体育館の静けさが際立つようだった。彼はそれを拾いに行くことはなかった。再びこちらに振り返ると、大きく息を吐いた。ぼくは無言のままに言葉を促す。彼はもう一度溜め息を吐くと、口を開いた。

そんな花魁の魅力に獲り憑かれちまったおとこがいる。あの政治家だ。そうさ、この都を瓦斯灯で明るくしようなんて馬鹿なことを抜かした、あの政治家が現在の花魁のパトロンってわけだ。あのせんせい、花魁に相当ご執心らしい。ここ二、三年、ずっと通い詰めってハナシだ。自分以外の誰も、花魁には近づかせないつもりだってことさ。気をつけろっていうのはそういう意味でもある。あの花魁とヘタに言葉を交わしているところなんて見られたら、あんたはすぐに職を失うことになるだろうよ。それぐらい奴には簡単なことさ。いやヘタをしたら職を失うだけじゃすまないかもしれないな。金のある奴はなんだってできる。ウラでどんな連中とつながっているか知れたもんじゃない。

命あってのモノダネっていうぜ。彼はそう言って肩を竦めた。

コートの片隅に転がったバスケットボールをぼんやりと見つめながら、考える。政治家……政治家……政治家……頭の中でその言葉を繰り返す。日ごろその手のことに興味がないせいか、イマイチその人物を思い出すことができない。それでもおぼろげではあるが、ぼくはそいつを知っているのだった。そう、政治家という名の、そのおとこを。 

そしてそいつの顔を思い出した途端、頭の中で、彼女とそいつがふたりきりでいる場面が映像として想い描かれた。つい数時間前に目の当たりにした花魁道中。彼女が誰かに逢うために外に出向いたという事実……それは、自分でも呆れるぐらい不快なものだった。別にほかの遊女たちのように、そのおとこと褥をともにするわけではない――たとえそうだったとしても、我慢がならなかった。彼女とそのおとこがふたりきりで同じ部屋にいるということ自体が許しがたかった。

たぶんこのままなにもなかったならば、ぼくは嫉妬の波に呑み込まれていたはずだ。食堂に戻りたらふくに麦酒を流し込み、ヘタをしたらそのままそこで酔い潰れ、朝の消灯作業をサボタージュしていてもおかしくはなかった。

けれどそうはならなかった。そうはならなかったのは、さっきの彼の言葉――そのなにに違和感を憶えたのか、気づいてしまったからだ。

ちょっと待ってくれないかな。ぼくは言った。さっき君は、あの楼閣が遥かむかしに建てられたって言っていなかったか? ぼくたちが生まれるよりも、ずっとむかしのことだって。多くの信奉者が彼女のために金を積んだって。家財を投げうったって……遥かむかしってどういうことだ? ぼくたちが生まれる前って? 彼女はまだ二十歳にもなっているかどうかって年齢じゃないのか?

違和感の正体はそれだ。たしかに色町そのものは相当に古いものだと思う。それは通りに面した見世見世の構えを見れば判る。だからあの楼閣がずっと以前に建てられたものであり、前々から色町の象徴としてそこにあったというのならば、理解はできた。そこに現在最高の遊女である彼女が住まうことを許されているというのならば、それも理解はできた。だけど、彼の言葉は違う。

あの楼閣は彼女のために建てられた。遥か、むかしに……それはいったい……

彼は応えてはくれなかった。再びバスケットボールを拾いあげると、ぼくの方に投げて寄越した。さっきよりも、ずっと強く。

かかわらない方が身のためだって話を、俺はついさっきまでしていたんだぜ。低い声で告げる。それは政治家の件に限ったことじゃない。たしかに俺は今それを引き合いに出した。そっちの方がよほど現実的な問題だからだ。けれどかかわるなってことは、言葉どおりの意味だ。深入りはしない方がいい。だいたい、もしも俺が本当のことを教えてやったとしても、あんたにそれを信じることはできないだろう。実際のところそれは信じるか信じないかの問題じゃない。その事実を受け入れられるかどうかだ。あんた、この都に来てまだ数年ってところだろう? あるいはもう少し長く暮らしているのかもしれないが、あまり地元の人間とのつながりを持っていないはずだ。でなければ、あの花魁のことを知らないなんてことはあり得ないんだからな。

俺はガキのころからずっとここで暮らしている。都で育った奴ならさっきの唄は知らないはずがない。都では誰もが知っている唄だ。もちろん、ガキのころは架空の物語に登場するお姫さんみたいなもんとして俺も考えていた。子どもらしい憧れとともにな。だけどそれは違ったんだ。それは成長とともに改められた。花魁は、確実にあの色町に存在する。ただのおとぎ話の姫君とは違ってな。それは明らかにこの世の摂理に反することだ。そんな相手に惚れちまっても不幸になるだけだ。現に、これまでどれだけのおとこたちが人生を棒に振ったことかしれたもんじゃない。

これで話は打ち切りだというように、彼はふうと息を吐き、踵を返した。バスケットコートを横切るとそのまま外に向かう。ボールを手にしたままに立ち尽くすぼくに、まるで捨て台詞のように言い足した。ひとつだけ言っておいてやる。

花魁の美しさは、この世のものじゃない。



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