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ある瓦斯灯の下で君を想い唄う    連載7-2(18) 高北謙一郎

彼女と別れて後、ぼくは楼閣の三階でひとり横になっていた。
あまりにも色々なことが起こりすぎて、頭の中が混乱している。あの政治家が黒服のおとこたちを従えてぼくを車に乗せたのも今朝のことなんだと、ふと思ったりもする。昼の悪夢に酔い潰れたのも今日の話だ。そしてこの色町が閉鎖されようとしているのも。そして……そして彼女の、白い肌の残像……夢かまぼろしか、湯煙の向こうに霞むしなやかな肢体がうっすらと透けて見える。上気した頬、紅いくちびる……余計なことを考えるなという方が間違っている。目を閉ざす。自分に言い聞かす。これは単純な夢想、これはあまやかで、単純な夢想……この腕に彼女を抱きしめている。裸身の彼女を抱きしめている。その髪に、そのくちびるに、その首筋に、そしてその胸もとに、触れる。ひんやりとして温かな……しっとりとしていて、だけど滑らかな……そしてその上を辿るぼくの指先。弱く。強く。彼女の吐息が耳もとで聞こえる。その細い腕が、ぼくを……

駄目だな。大きく溜め息を吐くと、寝返りをうった。部屋の隅で焚かれているらしき芳香が、あたりに漂っている。それが余計に、あらぬ方向へとぼくを導いていく。

やれやれ。どうやらそう簡単には眠れそうもない。どのみちこのまま眠りに就いたとしても、妄想が夢の中まで忍び込んできそうだ。それならまだ、少しでも理性を以って彼女を想い描く方が礼儀というものだろう。たぶん。

もう少し夢想の深みを漂ってみる。

たとえば、ぼくは彼女を外の世界へと連れ出すことができるのだろうか、と。いや、そんなおおげさに考える必要はない。もっと気楽な方がいい。設定を日常的なものにしよう。たとえば彼女が普通のおんなの子だったとして、ぼくは単純に好きな子をデートに誘うような感覚で、彼女を外に連れ出すことができるだろうか、と。

あのさ君、今度ぼくの友人がパーティを開くんだ。結婚するんだよ。実をいうと彼、相当な腕前のトランペッターでね。だからライヴ・ハウスを貸しきってのパーティになるらしいんだ。どうだろう、君も一緒に行ってみないかい?

彼女は微笑んだ。拒絶の意思が伝えられるよりも先に、ぼくは自らの言葉でそれを遮る。
会場で待ってるよ。場所が判らないって? それなら心配ない。その日の夜、点灯夫たちは皆、君のために仕事をボイコットする。都中の点灯夫たち、皆だ。そしてぼくだけがその夜、君のために瓦斯灯に火を点す。そうさ、闇の中、会場まで続くひと筋の流れ――楼閣の屋上から見れば一目瞭然だろう? 君はぼくの点した道しるべに沿って進めばいい。そこが待ち合わせの店ってことさ……

夢想の深みへと更に漂う。

当日。ぼくはブラックスーツにミッドナイトブルーのシャツを纏い、めかし込んでパーティに出かける。ほかの点灯夫たちは既に会場へと向かったはずだ。点灯夫たちのストライキ。都は完全なる闇に覆われている。そしてぼくもまた、自らの役目は終えた。いつもは瓦斯灯の火によって仄かな明るさと賑わいを見せているはずの時間帯、けれど今夜は、ごくわずかな焔だけがひと筋の道を綴っている。

都の巨大な駅前通りを抜け、少し歩いた先にある背の高いビルを前に足を止める。彼女はまだきていないようだ。ビルとビルの狭間を抜ける風が冷たい。時間を確認する。ファーストセットはもうすぐ始まってしまう。それでもぼくは冷たい壁に寄りかかり、静かに目を閉ざす。まぶたの裏側で、こちらに駆けてくる彼女。息を切らせた彼女が目の前に現われる……だけどそれは、すぐにまぼろしと知れる。そこに彼女の姿はない。

結局ひとりで入店することになる。回転扉を潜り、エントランスからエスカレータを昇る。二階。うしろを振り返ると会場の入り口が見える。受付で係の女性にコートを手渡す。あとで連れがくると思うんだ。告げる。にこやかな笑みに励まされて会場の奥へ。分厚い両開きの扉を抜けると、ざわめきとともに広々とした空間が開けた。

トランペットを手にした同僚が、ピアノトリオを従えている。正面奥にステージ、フロアのほとんどを占めるテーブル席には大勢の客たちの姿。見知った点灯夫たちの顔も見える。そしてそれをぐるりと取り囲むように、幾つかのボックス席が並んでいる。照明の落とされた中、ボックス席へと向かう。ふたりのための席に、ひとり座る。

新たに係の女性が登場。そこでも尚、しつこく主張する。

あとで連れがくるはずなんだ。それまで食事は待ってもらいたい。代わりに麦酒を注文する。見慣れたマグカップではなく、上品なグラスに注がれたそれが運ばれてくる。ふたり分の食器も並べられる。ぼくはそこで、ひとり彼女を待つ。

ファーストセットは終わりを告げる。照明が少しだけ光度をあげ、ボックス席にひとり座るぼくを、ほかの客たちに知らしめる。ひしめき合うように並べられたテーブル席、そこから自分を見つめる好奇の視線。自意識過剰。冷静にふるまうよう努める。

麦酒は既に、三杯目もなくなろうとしていた。慣れないグラスに手をぶつけ、それを倒してしまう。派手な音とともに中身がこぼれる。舌打ち。心の中で呟く。落ち着け。

いつしかセカンドセットもクライマックスを迎えようとしていた。時間だけが容赦なく流れていく。再び目を閉ざす。頭の中で新たな映像。分厚い両開きの扉が音もなく開かれる。係の女性に導かれて彼女が現われる。にこやかに微笑むと、ぼくの隣に腰をおろす……だけど目を開けばやはり、彼女はまだこない。

セカンドセットも終盤が近づき、係の女性が囁くように告げる。
お客様、お食事の方はそろそろラストオーダーとなりますが、いかがなさいますか? 

深く息を吸い込み、長い溜め息。真っ白な皿は、いまだ真っ白なまま。申し訳ない。食器はまだ片づけないでください。代わりに、もう一杯の麦酒をお願いします………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………いつの間にか眠りに落ちてしまったようだ。上体を起こすと、間戸の外に視線を向ける。都の軍部が、照空灯によって夜を乳白色に染めている。現実が一気にぼくを覚醒させた。そう、ぼくは今、色町の中にいるんだ。楼閣の中にいるんだ。のんびり眠っている場合ではない。



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