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ある瓦斯灯の下で君を想い唄う    連載9-2(24) 高北謙一郎

初めて、自分よりも優れたピアニストに出逢った。もちろん教わっていた教師も、あるいは同学年の生徒たちの中にも、優れたピアニストはいた。だけどそれは、いずれ追い抜くことのできる存在、そういった類のものだった。経験を重ねれば超えることのできるものだった。けれどその女性は違った。その音の鳴らし方、選び方、構成力、すべてに於いて圧倒的だった。まるで違った。勝てないと思った。


まったく想像できないんだよ、どうしてあんなふうに弾けるのかってね。つまりは真似することさえできなかったんだ。

そんな女性とぼくは交際していた。初めのうち、ぼくにとってその存在は憧憬の対象そのものだった。あれほど素晴らしいピアノを奏でる女性と交際できるなんて――そう思っただけで幸せだった。けれどもそれは長続きするものではなかった。

ある意味でそれは必然だった。近すぎたがゆえに、ぼくのピアノは歪んでしまった。憧れは憎しみへと変わった。まず、ほんのわずかな嫉妬が芽生えた。やがてそれは巨大な敗北感へと成長した。たしかにぼくは優れたピアニストではあった。けれどそれ以上ではなかった。その女性のような高みには届かない。どうあっても。

自らがピアノを弾く意味を失った。すぐそばにまるで太刀打ちできないほどのピアニストがいたら、もう自分がピアノを弾く必要はなかった。ぼくはカレッジを中退した。その女性とも別れた。以来、ぼくにとってピアノは小遣い稼ぎの道具に成り下がった。当たり障りのない音を奏で、自分のプライドを傷つけない程度に弾く、ただそれだけのものになった。だからぼくはもうピアニストではない。ついでに付け足すなら――

その女性は今、世界的にも有名なピアニストとして大成しているよと、ぼくは自分の声がなるべく自嘲気味にならないよう、抑制を意識する。

彼女に語りながら、思う。結局、自分は手に入らないものを欲しがっているだけなのではないか? 分不相応な願望を抱きながら、それが分不相応であると気づかない。あるいは気づかないふりをしている道化のようなもの。いつまで経っても空回りで、なにひとつ成すことのできない愚者。彼女を求めるということはつまり、そういうことなのではないか? あの時と同じなのではないか? 届かない。どうあっても。

だけど、あの挫折感だけは我慢がならない。虚無の口が大きく開いた奈落の景色、そこに堕ちていく自分を思い出すだけでも全身に鳥肌が立つほどの恐怖を感じる。怒りを感じる。そしてそれと同じぐらい、自分を誤魔化すような今の自分が許せない。そんな中途半端なままでだらだらと生活を続けている点灯夫、そしてそれをなんとかしようという努力すら放棄してしまっているおとこ、それが自分だ。

要するに、それこそがぼくの飼い馴らしてきた悪夢の正体だった。そいつは焦燥を纏い、失望と苛立ちを纏い、夜毎夜毎、さまざまに姿を変えながら、それでも常にぼくに付き纏ってくる悪夢という怪物だった。そいつはぼくを餌に成長していく。だけど決してぼくを喰い殺したりはしない。自らの餌場を枯渇させるような真似は、決してしない。生かさず殺さず。ぼくはそいつを飼い馴らしていると同時に、そいつに飼い馴らされてもいる。

もう一度、彼女の指先がピアノに触れた。
隣で、澄み渡る音が響いた。

その苦悩を、あたしが気安く慰めてやることはできないだろうねぇ。彼女は言った。だけどね、さっきお兄さんが弾いていたピアノ……あたしはお兄さんの弾くピアノが嫌いじゃないね。ちらりこちらに視線を向けると、ふっと口もとを弛める。あたしにも、なにかを強く求める気持ちってもんがあれば良いんだけどね、この土地でただ生かされているだけのあたしに、そんなものは見当たらないんだよ。

そう言うと、彼女は呟くように言葉を発した。それは以前、彼女がこの楼閣の間戸辺で口ずさんでいたものだ。なにかの唄のようでもあり、詩のようでもあり……
   
 落ちる愉悦を、あたしは知らぬ。
 けれどこの終わりなき日々は、高みとは呼べぬ。
 ならばあたしは何処へと生じたか。
 おとこたちの夢によって、何処へと生じたか。
 されど外の世界を知らぬあたしは、ここが何処か知る由もない。
 花は風に運ばれるのに、あたしを連れ去る者はない。
 何処へとも飛べぬあたしは、落ちる愉悦を知る由もない。

ほっそりとした彼女の指先が、そっとぼくの方に伸びた。
それはゆっくりとぼくの頬を撫ぜるかに思われた。

けれど、その瞬間は訪れなかった。
彼女の手は中空に留まった。彼女は動きを止めた。大きく目を開いたままに、ぼくの顔をまじまじと見つめた。それからその手を引っ込めると、ふっと息を吐いた。

視線を外す。落ちる愉悦を、ね……そっと呟く。
蝋燭の在庫はまだ充分にあるはずだから好きなだけ持っていって構わないよと、彼女はからりとした口調で告げた。彼女の中でなにかが切り替わった、そんな感じだった。上の階に食事を用意させておいた。湯も沸かしてある。ついでに少し眠るといい。あんまり無理すると倒れちまうよ。そう言い置いて、彼女はフロアから出て行った。きた時と同じように、音もなく、滑るように。ぼくはそのうしろ姿を、ずっと見つめていた。


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