見出し画像

ある瓦斯灯の下で君を想い唄う    連載3-1(6) 高北謙一郎

初めて受け持った場所とはいえ、消灯作業そのものにたいした違いはない。然したる感慨も抱かずさっさと都の北部にある自分のアパートに帰る。これまで受け持っていた地域では帰り道に【センター】があったので、そこで朝食を済ませて家路につくことも多かったのだけど、色町からは自分のアパートの方が手前に位置する。ある意味では楽だけど、途中で食材を買わなければならないと思うと億劫でもある。

超過労働気味の草臥れたバスは、いつものようにガラガラだった。それは、単に中央から遠ざかるルートの問題だけとは思えない。このバスは、いつだって閑散としている。なにかぼくには判らない根本的な問題を抱えているのかもしれない。長いポールを無理やり車内に運び込み、ぼくはバスと同じくらい草臥れた様子で最後尾の座席に腰をおろす。

長い溜め息をひとつ。すれ違う朝の都は、仕事や学校に向かうひとびとでごった返している。山ほどの自動車と、山ほどの自転車。そしてそれらの間を縫うように、ひとびとが足早にすり抜ける。幾つかの通りでは、ひしめき合うように屋台が並んでいた。熱燗麺を売っていた浅黒い肌の老婆が、なにか大声をあげてぼくの乗ったバスに手を振っているけれど、それが誰に対してなのかよく判らない。どうやら朝の挨拶だったらしいのだが。

バスを降りて後、市場で売れ残りの食糧を買った。都のいたるところで開かれている朝の市場も既に終了の時刻が迫っていた。買い物客の姿は疎ら。威勢のいい掛け声も今ではすっかり嗄れている。香辛料と焼き栗の甘い匂い、猛烈に食欲をそそるスープの匂い、死んだ魚の臭いも少々。萎びた野菜と肉を定価よりもずいぶんと安く手に入れた。残り物を狙っていた野良犬たちの恨めしげな唸り声を聞き流し、アパートに辿り着く。

軋みを立てる急勾配の階段をのぼり、薄暗い通路を西側に進む。突き当たり、一番端に位置するのがぼくの借りている部屋だ。深い緑色に塗られた玄関の扉を開ける。ちっぽけなダイニングキッチンと、ちっぽけな寝室がひとつ。ユニットバスに窓はなく、いつも換気扇が忙しなく廻り続けている……入り口の照明のスイッチを点すと、そんな部屋が現われる。ただいま。当然のことながら、それに応える声はない。

ここに独りで暮らすようになって、もうすぐ二年目を迎えようとしていた。独身寮を出て、もうそんなに月日が経ったのかとわれながら驚く。都に移り住んでからはもう七年……いや、もっと経つのか。移ろう時間の速さに改めて恐れをなす。

もともとぼくは、この都とはなんの縁もゆかりもない辺境の地方都市に生まれた。ひとりっ子だったぼくは、そこで両親とともに子ども時代を過ごした。今にして思えば恵まれた家庭環境だったとは思うけれど、十八歳の時、カレッジへの進学を機にこちらに移り住んだ。もっとも、そのカレッジには最初の二年間しか顔を出すこともなく、あとはぶらぶらとアルバイトをしながら小遣いを稼いでいたのだったが。

なし崩し的にこちらでの暮らしを続けている間、両親の仕送りは大切な供給源だった。けれどそれも、ぼくがカレッジを中退したことが知れるまでの短い期間の話だ。以来、仕送りは途絶え、連絡も途絶え、今では立派な放蕩息子という体たらく。あるいはもう親子の縁さえも切られているのかもしれないけれど、それさえも知る手立てがないという有様だった。二十代の半ばにして、ぼくは完全に道を踏み外してしまっているようだ。

時どき、こんな生活がこれからもずっと続くのだろうかと、不意に思ったりもする。このまま点灯夫としての仕事を続けながら、三十代、四十代になってしまうのだろうかと。もちろん今の生活自体にはこれといった不満はない。とはいえ、それでは満足しているのかというと、それもまた簡単に頷くことはできない。今のぼくにとって将来を想い描くのは、あまり愉快な思索とはいいがたいものがある。

点灯夫の仕事は、すべて【センター】で管理されている。管制室に設置された巨大なモニタに映し出されるのは、都の全域をカバーする精密な地図。そこには都中に配置された瓦斯灯が点滅するひかりとなって示されている。どこそこの瓦斯灯が何時に点灯された、どこそこの瓦斯灯がまだ消灯されていない……すべては一目瞭然だ。

そしてそれだけが、すべてでもあった。【センター】にとってみれば誰が作業を行っているのかなんてことはどうでもよかった。要は設置された瓦斯灯が正しく都の照明設備として機能しているかどうか、それさえ確認できればいいのだった。ヘタをすれば、どこかの一般人が瓦斯灯の火を入れてくれたって構わないのだ。消灯をしてくれたってなんの問題もないのだ。ぼくたちはその程度のことしか期待されていない。だから正直なところ、同僚との持ち場の交換にしても別に隠し立てする必要などないのではないかと、そう思っていたりもする。だいたいその管制室だって、ぼくは一度しか足を踏み入れたことはなかった。それも、この仕事に就いた当時、研修で見学しただけ。それだけだった。

仕事の不平をいっても仕方がない。火を入れたばかりのストーブの前に陣取り、買ってきた野菜と肉を浸したスープをその場で啜る。料理なんて碌にできやしないぼくにとっては、この程度のものを作るのが精一杯だ。そして、たったこれだけでぼくがこの部屋ですることの大半は終わってしまう。あとは服を着替えて眠るだけだ。雨戸を開けて陽射しを入れたいと思いながらも、なにも明るい部屋で眠る必要もあるまいとの理由から、結局それは閉ざされたままに終わる。もうずっと、それは閉ざされたままだ。

作業着から部屋着に着替えるとベッドに潜り込む。さすがに身体は疲弊している。いつもなら、すぐにでも眠りに落ちてしまうはずだ。だけど今日に限っては、そう簡単に眠りの安寧に沈むことは難しかった。何度も寝返りをうつ。暗闇の中、目は冴えたままだ。

理由は判りきっている。彼女だ。彼女が特別だってことは、幾らぼくにだって判る。あの色町の中央に聳え立つ楼閣ひとつをみても、彼女が遊女たちの中で最高位と考えられていることは明らかだ。彼女は紛れもなく花魁であり、太夫であり……そのことに、疑いようはない。そう、彼女はこれまでに出逢った女性たちとは違う。好きだからといって、簡単に外に連れ出すことはできない。気楽に逢いにいって言葉を交わすことも難しい。

だけどそれならば、金で買えばいいのか? 金を払い、彼女を抱けばいいのか? 馬鹿なっ! ぼくはそんなことのできるおとこではない。そんなこと、できるはずがないじゃないか。それとも同じ買うにしても、もっと莫大な金を用意すればいいのか? 方々から金をかき集め、彼女を身請けしてしまえばいいのか? それならば誠実さは保たれるのか? 純潔は護られるのか? いや、けれどもそれは、いずれにしても現実的に無理な相談だ。ぼくにはそんな金を集める才覚はない。

もう何度目になるだろう、溜め息を吐いた。

なにをそんなに思い煩う必要があるんだ? たまたま新しく受け持つことになった地域に、たまたま美しいおんなの子がいた、ただそれだけのことじゃないか。そんなこと、別に珍しいことでもなんでもない。これまで受け持っていた場所にだって、美しい子なんて幾らでもいた。喫茶店にも、ケーキ屋にも、花屋にも、本屋にだっていた。なのに……

違う。なにをぐだぐだとヘリクツを並べているんだ? そんなことはどうでもいいんだ。認めてしまえ。ぼくは彼女の存在に、どうしようもないほど惹かれている。彼女を見た瞬間から、彼女のことしか考えられなくなっている。そうだ。自分は今日、恋に落ちた。それを否定することは、あまりに馬鹿げている。


                  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?