見出し画像

ある瓦斯灯の下で君を想い唄う    連載6-2(16) 高北謙一郎

先ほどまでの焦燥を思い出す。色町が撤廃されたなら、彼女はどうなってしまうのだろう? それこそが、ぼくをここに至らしめた最大の理由ではなかったか? だからこそこうしてここに……だけど湯水の中の彼女は、やはりなんでもないことのように言う。もしかすると、あたしも消えちまうんじゃないのかねぇ。

オヤお兄さん、そんな顔しなさんな。あたしがどんな存在なのか、もうお兄さんも知ってるんだろう? そうさ、あたしはお兄さんたちのような人間とは違う。あたしには母親はいない。父親もいない。ただ闇のわだかまる場所から生まれ、気がつけばそこは色町と呼ばれる一大集落みたいな場所になっていた。まぁ普通に考えるなら、あたしが先に存在してその後に町が出来たんだ、たとえ町が消え失せたとしても、あたしまでが消えちまうことはないだろうよ。だけどね、そもそもこの町を造ったのは、あたしを創り出したおとこたちなんだ。そのおとこたちが暮らすこの町がなくなっちまったら、やっぱりあたしも消えちまうんじゃないのかって、そんな気もするんだよ。なにしろね――

あたしはこの町でしか暮らすことはできないんだと、彼女は言った。この色町の中でしか、生きてはいけないんだ。ちょうど結界みたいなもの、とでもいえばいいのかねぇ。おとこたちの夢があたしを形づくっている以上、あたしは色町を離れることはできない。離れちまったが最後、あたしは泡沫に消えちまうんだ。

以前にもね、この町の外に出て行こうとしたことがあるんだよ。だけどそれは不可能だったのさ。町を取り囲む高い塀よりも外に踏み出しちまったら、あたしは簡単に消え去っちまうんだ。息をすることさえままならない。水槽の中の金魚みたいなもんさ。まったく嫌になっちまうよ。そりゃおとこたちはあたしを大切にしてくれるさ。だけどね、決して広い海に解き放ってはくれないんだ。

同僚が言ったように、そして門番の老人が言ったように、更に今、彼女自身の口から告げられたように、彼女の存在はぼくら人間とは根本的に違う。徐々に積み重ねられるそれらの言葉を、だけどこの期に及んでも尚、ぼくは信じることができずにいた。

彼女が人間じゃないだって? そんな馬鹿なっ! だって、彼女はここに……手を伸ばせば届きそうなほど近くに、しっかりと存在しているじゃないか。これが嘘だというなら、まぼろしだというなら、彼女はいったい…… 

それでもそんなぼくの憤りとは別に、彼女は気楽な口調のままで言った。

まぁ心配しなさんな、あの政治家さんだって、別にあたしを消し去ろうってつもりじゃあないんだよ。あのひとの狙いは色町の閉鎖じゃない。色町の乗っ取りなのさ。この町そのものを買い取っちまおうって魂胆なんだよ。

ぼくはその言葉に当惑を隠せない。だけどこちらが言葉を挟むよりも先に、彼女は更に続けた。あたしは今日、彼の求婚を断った。だけどね、彼はその程度のことで諦めたりなんかしないだろうよ。これは、彼とあたしの間の駆け引きみたいなもんさ。なんでも色町は今日で閉鎖、明日には皆ここを出て行かなければならないって話になっているみたいだけどね、そんなこと急に言われたって無理に決まってる。誰が考えたってそうさ。

当然、町の連中がその要請に素直に従うはずはない。ならばどうするか? 彼らは色町に篭城を決め込むはずだ。そうさ、この町はね、遊女たちが逃げ出さないようにって、高い塀と深い堀に囲まれている。そういうことになっている。だけど裏を返してみると、外からの侵略に対して途轍もなく堅牢に造られていたりもするのさ。ちょっとした要塞みたいなもんだよ。実際、本当のことをいえば、そもそもこの町は、かつては外敵からあたしを護るために造られたものなんだ。今みたいな独立した町として都に認められる以前は、他国のおとこたちと、あたしを巡っての争奪戦が繰り広げられたこともあったんだよ。

まぁそんなわけさ、話を元に戻そうじゃないか。色町の遊女、そして若い衆、更には古くからこの町に暮らす楼主たち、彼らは当然この町に立てこもる。望むと望まざるとにかかわらず、行き場のない者は皆ここに残るよりない。だけどね――

それすらもあの政治家の思惑どおりなのだと、彼女は続けた。篭城を決め込んだからといっても彼らに勝ち目はない。それは間違いないだろうよ。当たり前だけどね、食糧が尽きれば皆、投降するよりないんだ。そしてその結果、彼の軍門に下った者たちはどうなるか? これまでここに暮らしていた者は? 皆はどうなっちまうのさ? 

もしかして……と、ようやくにしてぼくは口を挟んだ。白い霞の向こう側、そこにたしかに存在する彼女に。もしかして、君があいつとの婚姻を認めるならば、ここで働いているひとびとの身の安全は保障すると、そういうことなのか? 彼らの生活が君の応えに懸かっている、君は彼らのために生贄とならざるを得ない、そういうことなのか? 

あるいはあたしの方からそれを交換条件として持ち出すかだねと、彼女は小さく鼻を鳴らした。言ってみりゃ、彼はこの町で暮らしている者たちを盾に取ったのさ。最終的にはね、あたしはその婚姻を認めるしかないのさ。

そして婚姻の暁にはこの楼閣の周りの土地をすべて買い取り、あたしと自分だけの楽園を築くつもりなのさ。そう、つまりは楼閣だけを残して、一度この町を破壊するんだ。そして新たに自らの楽園を創りあげようって腹積もりなんだよ。

大門の向こうから、拡声器を使った怒鳴り声が聞こえる。
どうやら政府の連中が軍隊を出動させたらしい。

お兄さんも早いとこここを離れた方が身のためだよ。
もうすぐここは閉鎖されちまう。その前に脱出しちまうこったね。

ゆらりと、彼女が立ちあがる気配。湯水に浸かっていたであろう彼女が。

息を呑む。再び、幻視とも幻覚ともつかない映像。彼女の火照った肌から香気が立ちのぼる。濡れた長い髪が、華奢な肩に張りついている。露わになった胸乳から、白色の湯が流れ落ちる。それは滑らかな腹部を下っていき、やがて……

呆然と立ち尽くすぼくの目の前に、彼女が。

紅い花々を敷き詰めたような湯に分け入るようにして、彼女がゆっくりと目の前にやってくる。深く張った湯水の中、一歩、二歩、三歩……黒檀の格子の向こう側に、裸身の彼女。まぼろしではなく、実在の。すぐ目の前で、くすくすと笑う。残念だったねぇ。初会、二会目、三会目……色町のしきたりに則るならば、ようやく晴れて夫婦の契りを交わせるはずだったのに。馴染みの客として認められたのに。これでお別れだよ。

間戸の外に顔を向ける。いつの間にか、陽は沈もうとしていた。喧騒は遊郭の外側だけでなく、内側でも始まっている。色町で働く若い衆だろうか、大声でなにやら怒鳴りあっている。そこに遊女たちの罵声も混じる。どうやらバリケードが築かれようとしているらしい。幾つかの掛け声とともに、重量感を伴う低音が響いた。彼女の言うとおり、篭城は避けて通れない。まるで非現実的なその音は、それゆえにこそこれが現実であることを認識させた。

それでもぼくが考えるのは、やはり彼女のことばかりだ。彼女のことだけだ。
目の前の彼女に視線を戻す。裸身のままに笑みを浮かべる彼女に。

ぼくはここに残るよ。

そう、彼女がどんな決断をくだしているのか、ぼくには判らない。あるいはこの抵抗は、初めから答えの判っている無意味なものかもしれない。それでもぼくは、見届けたいと思った。その決断の時まで、一緒にいたいと思った。彼女と。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?