名付けようのない踊り

田中泯氏の「名付けようのない踊り」を観ました。


映画の中で氏が

「言葉とかができる前に踊りがあったんだよね」

というようなことを言いまた

「言葉ができたことによって更に~」

みたいなことも言っていました。違ったらすみません。


言語というのは合理性、論理性が担保されているもので、
会話が成立するためには、
ここに書いているように、ある一つの流れというか、
方向性があって、物語というような、
相手に意味を伝えるという大前提があります。

たとえば話している相手が自分の知らない言語だった場合、
会話は成立しません。
会話は成立しませんが、
相手が普通(普通とは?)の人であった場合、
何か意味を伝えるために話しているんだなと意味をくむことはできます。

ですが相手の話していることが、
ただの言葉の羅列で、順序がめちゃくちゃで、
全く意味のなさないものだった場合、本当の意味で会話として成立しません。

相手が通常の言語論理、流れでもって話している、
つまり説明できるなんらかの合理性というものが根底にあります。


言語ができる前の世界、というのにはもう戻れませんが、
他の身近な多くの生物は言語を持たないと考えられています。

ですが親から子へ生きるということを教えて色々なことを
伝えていると考えられます。
猫がじゃれていたり獲物をとる方法なんかも
親猫がわざわざ、
「これこれこうでこうしないと死んでしまう。
 この行動にはこういう理由がある。
 だからこうやるんだ。」
なんてことは言いませんし、もちろん説明も何もありません。

いきなり放り出された世界で、
理由も説明も一切ない状況で、
ただ生への本能と、
多くの哺乳類であれば親や集団についてこれなければただ死んでいくだけです。
逆にそれについてきた者だけが選択的に生き残ってきました。

生物にとっての合理性、合目的というのは生そのもののためであって、
それ以上でもそれ以下でもありません。
ですが言語というものは違って、内容が正しいか正しくないか、
真か偽か、そもそもいったい何のためか、というところがすっかり抜けてしまっていて、
言語自体の合理性そのもののための合理性です。

つまり、合理性が前提にあって、内容というのは二の次になってしまっています。
話の内容がしっかりしていれば信用できますが、真っ赤なウソかもしれません。
生きるための合理性ではなく、相手をだますために利用しているだけかもしれません。
真偽を問わないので空想ももちろんできますが。


とにかく人間の行動というのは、
赤ん坊のころは別として、言語を使い始めてからというものは、
とにかく納得のいく合理性、というものを言語から求めます。

余談ですが最近の若い人(いつの時代も言われる最近の若い人)というのは、
とにかく説明して納得させないといけません。
なぜ数学を勉強するのかとか、なぜこれをしなきゃならないのかとか、
完全な自身の合理性において納得できるものしか選ばず、
とにかくこれをやれなんていうことは通用しません。
社会において選択肢が増えすぎたために、
これを選ぼうが、あれを選ぼうが自由であるという、
逆に言うとあれを選んだためにこれを選ぶことができなかったという、
選択肢が広がったように見えて、見えている選択肢がなくなるという状況のため、自信を納得させるだけの理由、根拠が必要です。
通常人間は増えるとか多くなることに対していい感情を持ち、
減るとかなくなると嫌な感情を抱きます。
そして良い感情より嫌な感情のほうが強く働きます。

非常に多くの人間と集団生活を送るために、
相手も同じ言語論理、あるいは生活倫理というものを無意識のうちに構築していきます。
相手がこうしているのは、こういう理由があるからだ。
この行動にはこういう説明がなされる。
という言語論理でもって説明できるということが、
非常に重要であって、
言語論理で説明できないものというものは、
この社会を根底から覆す、危険なものとしてみなされます。

相手が一体どう人間かということにおいて、
全くその合理性から外れている、と感じた時多くの場合恐怖を感じます。
合理的に説明できるとなれば、安心、納得できます。


前衛芸術というのは、
この一般に説明できる合理性というものから逸脱している場合が多いです。
説明して理解、納得できるものではないものを前衛芸術と呼ぶとも言えます。
合理性のために、合目的のために言語を使用し生きてきた中で、
肉体そのものは言語を持つ前時代から継承しているものであって、
説明できるから、合理的だから、というそのためだけに動かせるものではありません。
肉体というのはあくまで、
動かすから動くのではなく、動いた、という後から確認できるものです。
つまり後から説明できても、今その瞬間動いているということ自体は、
動いているとしか説明ができない。

動く、あるいは踊るというのは、言語における論理、合理性と同じようなもので、
つまりそれ自身が前提条件として備わっているものであって、
前後が覆るものではなく、
本質的にはそれで完結しているともいえる。


話が流れてよくわからなくなったのでここでやめます。

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