やはり(釈迦さんのではない方の)師弟杯って偉大な発想だなと思った

 勝手に文脈を妄想して語るけど、そもそも「新規とガチ勢を同じ席に座らせるイベント」というのが破綻してるよね、と言う話。

 そういう意味で、ガチ勢を師匠とさせて新規を弟子として、(師匠はゲームに参加せずに)弟子の対戦をみんなで見守るという発想の方の師弟杯は偉大な発想だと思う。

そもそも手合い違いで試合をさせるという発想がおかしい

 明らかな実力差があるのにそのまま試合を行うのは大体の場合間違っているし、そんなやり方で楽しめるイベントはまずない。(同年代の)平均よりも身体能力が高いと思われる石橋貴明氏ですら、プロ相手にはハンデをもらって毎年興行をやっているのである。

 広義で言えばメリット(利点・価値)ではあるのだが、そもそも仕組みをちゃんと分かってない相手に対して、熟達した人が最適解を被せたところで、その試合の意味がないのである。手加減をするしない以前に時間の無駄でしかない。

 なおこれは似てる理屈ではあるが同じ理屈ではない。そもそも大前提として、会社を作って世のためにあれこれやっていくというのあるわけで「メリットが有るならやるべき」というか、そもそもそれ(新入社員育成)をやるのが当たり前なのであるし、いきなり責任の重くて難しい仕事を与えたところで誰も得をしないので(むしろあとあと周りの足を引っ張るだけになるので)そんな判断をしないと言うだけである。雑にたとえ話をやると不幸になるというだけの話であるが。

 道徳とかマナーによる判断ではないが、見返りがあるからやる・やらないという判断軸でもない。そもそも「手合い違いの勝負には意味がないし無駄」なのである。

少なくともコンピュータゲームは(その参加者達は)手合割と向き合っていない

 将棋には駒落ち、囲碁には置き石という仕組みがある。これによって実力差があってもそれなりに双方緊張感を持った試合をすることができるようになる。

 この系のハンデのいいところは、同じ実力の相手がそこに居なくても意味のある試合をどうにか実現できる可能性が与えられるところと、大体の場合そのハンデの元で双方がさらに実力向上に向けて工夫する余地を生み出せるところである。無意味な試合が減る。

 実力差があるからどちらがどのように配慮しろ、みたいな話ではなく、実力差がある上でどうすれば双方にとって実りのある試合が実現できるか、と考えることが大切なのでは、と思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?