たかのりえこ │ エッセイ
私には心得として大切にしているキーワードがある。父の口癖「どんな時もフィフティフィフティ!」お互い様の思いやりを持とう…という教え。 家事や仕事の傍らで「隙間時間にできるかも?」と、ひょんな思いつきで始めた家事支援ボランティア活動も今年(2024年)で10年目。市の社会福祉協議会(社協)が事務局で、高齢や障害、病気、ケガ、子育て中のご家庭が日常生活の中で手助けが必要になった際に生活を応援し合うサービスです。「全て頑張らなくていいんだよ!助けてもらいたい時は頼ってね!」そこには、まさに「お互い様」の優しく穏やかな風が…。 助け合いの活動を通して得られた出逢いや暮らしの知恵、垣間見える人生物語など忘れられないエピソードを紡ぎます。
ここにご紹介するのは、今は亡き祖母の手記です。 昭和63年。 当時70歳になったばかりの祖母が、戦地で亡くした子(母の兄。私にとっては一番目の伯父)の43回忌に供養のためペンを取り記したものです。 「みんなの命はこの様な背景があって今ここにある…」と。 私の子ども達(孫)がわかるようになったら語り繋いでほしいと母から託されました。 ここには祖母の生き様がそのまま綴られています。 祖母が遺してくれた唯一無二の手記…。 今回、2人の伯父と母から承諾いただき、平和への祈りが広く届きますようにと願いここに公開いたします。 祖母から託された想いを「いのちの襷」として子ども達に贈ります。
稲刈りの季節🌾 新米の季節🍚 「ウチの米ぜひ食べて〜」 「今年は良い出来だよ〜」 米農家ではない我が家は 今年もご近所の農家さんから購入。 とても有難く助かっています。 計算すると… 1日5〜8合程食べているので 1ヶ月に25〜30kg消費のペース🍚 これからもっと増えるかな? ところで… 皆さんのご家庭では お米はどこにどのように保存していますか? 冷暗所?冷蔵庫?米びつ? 先日、家事支援でおじゃましている お宅でお米の貯蔵場所の話題になり… 「我が家は『
人とのご縁に恵まれているな~ 有難いな〜と常々思います。 ささやかでも何かお役に立てられたら…と始めた家事支援ボランティア活動も早いもので10年目になりました。時々、子連れで遊びに訪ねていた近所の老人福祉施設で『スマイルとうど』という有償在宅福祉ボランティアの存在を知ったことがきっかけでした。 当時は子ども達も小さく、フルタイムで働きに出る余裕はなかった私にとって、社会や地域と繋がりを持てる活動のひとつになりました。 『とうど(田人)』=『助け合い』 この地域では、田
『おめでとうございます!母子共に安産です』 46年前、里帰り出産のため母の実家に送り届け、東京に戻って間もなくしてから仕事先で私の誕生の知らせを受けた父…。 喜びいっぱいに再び蜻蛉返りで駆け付けるはずが、その直後『奥さんが危篤です』の電話…。 「危篤…」 喜びも束の間、意識不明なので急いで来てくださいとの知らせ。 その時の父の心境は計り知れません。 奈落の底に突き落とされ、全く生きた心地がしなかったと聞きました。 実は、産後の母に当時既に禁止されていたという薬物
ここのところ体調が優れない私…。 「まだ治っていなかったの?」と、ご存知の人には驚かれますが、4年前からの味覚嗅覚障害は未だ完治していません。 それに加えて頭痛、めまい、耳鳴り、貧血、婦人科系などの不調も重なり、今までない症状に困惑気味です。 いよいよ、そんなお年頃を迎えたのでしょうか?経験者の先輩方にも色々アドバイスをいただくようになりました。 同じ症状の人とも気持ちを共有できたらと思い、ここにも綴ります。 まず、味覚嗅覚障害は4年前に発症しました。その日、花粉症
16年前の2008年5月…。 私は、かつて祖父母が渡ったシベリアの地へ向かっていました。 約9300kmのシベリア鉄道の旅をするために…。 この旅の中での印象的な出逢いをご紹介します。 当時、新婚旅行の旅先を考えていた時のこと…。 友人の旅の音楽家マリオとはるちゃん夫妻から『シベリア鉄道レインボープロジェクト2008』に誘われて、「せっかくなら新婚旅行として一緒に行こう」という話になったのです。 マリオとはるちゃんは、民族楽器やギター、ウクレレを携えて、国内外を旅
ここまで、祖母(高子)の手記をお読みいただきありがとうございました。 平成28年1月13日 享年97歳。 祖母が天国へと旅立ったあの日から四十九日を迎える今、祖母の偉大さをひしひしと感じています。私が祖母の手記を母から見せてもらったのは、祖母が亡くなってしばらくしてからのことでした。 私が知る穏やかな祖母の背景に、このような信じ難い現実があったとは…。こんなきっかけでもなければ、知ることも知られることもないひとりの女性の波乱万丈の半生…。ここまで事細やかに記された
自宅近くの道を歩く頃ぼつぼつ明るくなり、人様に見られたら相手は私の姿にさぞ驚くだろう。でも、誰にも逢うことなく我が家に着きました。 まだ玄関の鍵は外れていない。家の中を伺うところ父らしき人が囲炉裏端に座って朝ごはんを炊いているらしい…。かつて父がご飯を炊く姿は見た事がない私。平壌で見た夢は正夢だったのか…。母が私の帰りを待ちきれず、湯殿で命を絶った夢でした。 トントンと勇気を出して戸を叩く。中から父が気づいて立って来て、「誰だ!高子か?高子か?」の連発。狂わんばかり
9月初めにようやく釜山鎮より内地に向け出港となりました。夢のようでした。 海の彼方に電気の光が見え、それが博多の町との話に皆大喜びでした。ところが、船の中にコレラの疑いのある人がおり、その為に入港を許されず、沖の方に三昼夜も停められてしまいました。 それから徐々に上陸を許され、待望の日本の土を踏む事ができたのです。上陸して引揚者収容所に入り、健康診断等で数日置かれました。 さて、長い間夢に見た内地での汽車の旅。汽車に乗ったものの、なかなか発車しません。それもその
春も過ぎ、夏も去ろうとしている8月のある日、正式引き揚げもないので、少しでも暖かい内に一歩でも南下しようということになり、逃避行を決意したのです。 履く物もなく、裸足で出発し歩き出したのです。 第一夜は強い雨降りとなり、現地人に道を尋ねたところ騙され、山の奥へ奥へと歩きました。陽もすっかり暮れ、真の闇となり、雨はますます強く降り、全身ずぶ濡れになって一夜を山中で過ごしました。 夜明けと共に雨も小降りとなりましたので、現地人に見つからないように山を下りました。安曇
想像もつかない私達の生活、又つかの間の私達親子の姿を日夜見守っていてくださったのは私の渡満の際に一緒だったお観音様です。そのお観音様に守られて今日まで生きて参りました。 遠い昔の出来事として、年を追うごとに忘れられていくだろう。しかし、こうした事を想い出し、他の子ども達にも話し聞かせておくことも、勇の供養となり成仏できるものと考え、母の私以外には知ることのない事実を伝えておきたいのです。 28日、勇との最後のお別れの夜となりました。母に抱かれて寝ている2人の間には冷
次々と波の様に迫って来るのは、一日も早く父母の元へ元気に連れて帰りたい一心でした。これが内地だったらあの両親は初孫の顔を見てさぞかし喜び躍ることだったでしょう。外地の敗戦。敗戦国の避難民。これ以上の悲惨なあわれな事はありません。 戦争は二度と繰り返してはいけない。 戦争は絶対にしてはいけない。 栄養失調、病気上がり、それに消毒も手当てもなく、ちょうどに産湯に入れてやれず、犬猫同様のお産。 よく生きていたものと自分自身不思議に思います。体力はない、気力だけで生
日増しに気は重く、1月5日の出産予定日が控えているのです。それというのに12月にはものすごい集団の高熱病にかかり、医者も薬もなくただ熱と闘うばかり。 一夜明ければ何人かの仲間達が亡くなり、日本人墓地に送られていく毎日です。明日は自分の番か、次は自分が荷車に乗せられ、ああして竜山墓地に運ばれるのかと…。 ここまで頑張ってどん底生活に打ち勝ってきた自分は、どんなことをしても両親のもとへ辿り着く迄は、「是が非でも頑張るぞ、何で死ねるものか。」と心の内に強く言い聞かせました
8月も数日過ぎた頃、首都新京にも戦争の荒波は遠慮なく襲来し、けたたましい空襲警報は鳴り響き、突如に戦闘態勢に入りました。 9日夜10時頃、突然教育も解除となり、夫は19部隊の徳永曹長と二人で帰宅。直ちに部隊にかけつけて行きました。 私は、隣組の家族と行動を共に一夜は待避に明かし、翌早朝、国境部隊より教育に来た准尉1名、曹長1名の来客に朝食の用意をして差し上げ、その方達は原隊に出発しました。 今日も朝から空襲警報。夕方6時半頃、突然、新京在住軍人家族の疎開命令が発
昭和20年1月、軍人家族として満州国吉林省九站へ日本を後に渡満の途につく事になり、涙の両親との親子訣別の日となりました。 ※ 夫の軍歴書によると、昭和14年3月14日に現役兵として第四国境守備第一地区歩兵隊に入隊(於満州)。同年9月19日、獣医務下士官候補者になり、昭和15年6月には上等兵として吉林省新京へ渡り、新京関東軍獣医部下士官候補者教育隊に分遣。昭和17年6月に第四国境守備砲兵隊に転属し、昭和19年1月に獣医務曹長として先に九站へ渡っていた。 私は、出発
〜祖母の手記より〜 『私の半生をふりかえって』 (一部省略あり) はじめに 長男、勇(いさむ)の43回忌の春のお彼岸のお中日に、 70歳の坂を越えた母が古い昔を思い出しながら、 供養のつもりでペンを取りました。 時は、大東亜戦争(太平洋戦争)も真只中の頃。 夢中で生き抜いてきた四十余年前に思いを新たに、 薄れゆく記憶を蘇らせて一寸書いてみたいと思います。
高子おばあちゃんの平和への祈りを 「いのちの襷」として子ども達に贈ります。 ✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢✢ これからご紹介するのは、今は亡き祖母の手記です。 昭和六十三年。 当時七十歳になったばかりの祖母が、戦地で亡くした子(母の兄。私にとっては一番目の伯父)の四十三回忌に供養のためペンを取り記したものです。 「みんなの命はこの様な背景があって今ここにある…」と。 私の子ども達(孫)がわかるようになったら語り繋いでほしいと母から託されました。 ここ