【創作】「あなたが落としたのは、」
山の中に、手つかずの自然がたもたれた、青く澄んだ湖がありました。
男が立ち止まり、湖を眺めていると、湖の水面が盛り上がり、女性があらわれました。あらわれのは、湖の女神でした。
女神は、男に向かって言いました。
「あなたが落としたのは、金の斧ですか? 銀の斧ですか?」
唐突に水中から出てきた女性に、男は驚いた目をしていましたが、すぐにもとのうつろで、なにか疲れた表情に戻りました。
「おの? ……は?」
男は、疲れているせいか、頭がまわらないようで、「小野って誰だよ」とつぶやき、眉間にしわを寄せました。
女神は男の反応に少し戸惑いましたが、
「あなたが落としたのは、金の斧ですか? 銀の斧ですか?」
と再び問いかけました。
湖から出てきているのだっておかしいのに、この人はなぜ、自分に斧を落としたのかとしつっこく聞いてくのか。
男は、少しイライラしてきました。でも、答えました。
「落としてない」
すると女神は、
「あなたは正直者ですね」
微笑むと、
「あなたには、金と銀の斧、両方を差し上げましょう」
と言って、しゃがみこんで湖に手を入れ、金の刃と銀の刃の斧をとりだしました。
男はいきなり、自分のものでもない斧をくれようとしている女神に困惑しました。
「それ、僕のじゃないんで。あと、いらないです」
「……そうですか」
女神はうつむいています。
「なら、なにか落としたりしていませんか?」
「え、なに?」
男は、女神の問いかけの意味が分かりません。
「あなたは何度も、この湖の近くを歩いていますね。何度も何度も。よく見ていますよ。
それは、いつからですか?
なぜ、あなたはここにいるのでしょう」
男は、最近の自分の記憶がひどくあいまいで、ときどき頭も体も疲れてしょうがないのに、いつまで経っても生い茂る木々で変わらない山の中を歩き続けていました。
歩いて、歩いて、やがて、意識が少しずつゆらぎはじめ、地面に腰をおろしました。空は黒く、木々の間からかすかに月明かりが見えました。
「わたしは人ではないのです。
人ではないものを、どうしてあなたは見ているのか、見ることができているのか」
男に向けられた女神のまなざしは、悲しげでした。
「さあ、思いだしてください。あなたが落としたのは、」
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