女性のいない民主主義 、前田健太郎(著)
日本は、自由で公平な選挙が実施されている民主主義国家である。これに異論を唱える人は、国内外で、決して多くはないはずだ。ただ、本当に、日本は、民主主義国家なのだろうか。その対象は、誰のか。著者は、我々が民主主義を語る場合、それは男性中心の民主主義ではなかったか、と素朴だが、強烈な疑問を投げかける。
公共の利益を目的とする活動である政治は、誰のためにあるのか。政治共同体の構成員による話合いによってなされる政治、その話し合いに女性の意見は反映されているのか。そして、そもそも女性はその構成員なのか。
普通選挙制度一つとっても、例えば過去100年間で、間違いなく民主主義は質、量ともに発展を遂げてきた。古今東西の具体事例を挙げて、著者はそれを説明する。しかし、そこに「女性」という視点を取り入れることで、本当にそうだったのか、と思いとどまることになる。
日本で女性不在の民主主義が続いていることの理由の一つに、そもそも女性議員、そして立候補者の数の少なさを指摘する。米国などと違い、日本の場合、政党からの支援が当選の重要なカギを握り、これまで政党設定のキャリアパスは、官僚、議員秘書経験が多く、そうした前段階の職についている人の大半が男性だった。日本の国家公務員の役職に占める女性の比率の低さは、度々指摘されるところである。
そして数の少ない女性議員は、全体の30%と言われるクリティカル・マス(臨界質量)の比率に到達しておらず、「存在の政治」(Politics of Presence)(アン・フィリップ)が成立していない。そのため、女性の意見を政策に反映することが困難な状況である。自分が勝ち残ってきた「男性中心の民主主義体制」を男性政治家たちが、破壊するだろうか。残念ながら、これまでの歴史を見る限り、悲観的にならざるを得ない。
ただし、過去には、サッチャー、メルケル、蔡英文など、野党から女性指導者が誕生すしたことに触れる。そして、子どもの頃の社会化を通じたジェンダー規範の植え付け、またクリティカル・マスに加えてクリティカル・アクターの重要性を指摘することで、解決策の可能性を間接的に示している。
日本は、変わりつつある。しかし、昨今の国内政治状況を見るに、誰も取り残されていない民主主義の実現には、相当時間を要する気がする。そして、世界との差も広がる一方である気がしてならない。
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