彼女は森の暗がり(4/4)

(承前)

 <四>

 さて。
 端的にいえば、それからは何もかもつまらなかった。ほとんど卒業まで時間がなかったこともあって、転校先の高校で何か別段目新しいことがあるわけでもなかった。適当に受験を済ませ高校を卒業すると、都会の大学に入った。適当な偏差値の、適当な学校だった。
 それから、つまらない生活の中で知り合ったつまらない女の子たちとつまらない付き合いを何度かした。当然のことながらそれらはひどくつまらなく、味気なかった。
 女の子たちは痛めつけるどころか、ちょっと叩くだけで涙を流した。殴りでもした日にはあまりにもやすやすと服従し、泣きやみすらした。
 なんてやわなのだろう! そのあまりのたやすさに僕は怒りを通り越して呆れ果てるしかなかった。
 何より、あまりに簡単に服従することがなんとも情けなかった。ごめんなさい、ごめんなさい、と小さく縮こまって泣きじゃくるだけの彼女たちに腹が立って仕方がなかった。
 何もわかっちゃいないのだ。
 おどおどして僕の顔色を読もうとすればするほど、いらだつだけなのだということを。謝れば謝るほど、怒りを買うだけなのだということを。
 僕だって、好きで彼女たちを殴っていたわけではないのだ。いや、それどころか、むしろ彼女たちの方でそのことを望んでいた節さえある。
 彼女たちは、苦労がいつか報われることを期待していたというか、少なくとも人生の終局において諸々の苦難は全て清算されると考えていたようだった。僕と一緒にいることは、凡庸な自分が幸せを得るために必要な税金、つまり自分は悲劇のヒロインで、ずっと苦痛を我慢していれば幸せに、すなわち特別な存在になれるのだ、殴られるのはそのために必要な代償なのだと。
 卑しい欲望だ。
 それでも少なくとも付き合っている間だけは、そのつまらない欲望の実現に適当に荷担してやるのだった。
 もちろん、そんな関係の果てにはどうしようもないむなしさが待っているだけだということは、僕もわかっていた。つまらなさも限界になってどうにも我慢できなくなると、僕は別れを切り出した。意外なほどあっさりと受け入れる者がいる一方で、脅迫まがいのことをして引き留める者もいた。
 仕方なしに一時的な引き延ばしを受け入れるが、しかしどうしようもなくつまらない。再び別れを切り出せば、また何度でも引き延ばしが繰り返される。
 どうにも無意味な関係が本当に行き詰まってきた場合にはお別れするしかなかった。そうやって彼女たちの何人かには永遠の別れを告げた。誰のときも、あの可哀想な広野ゆみが死んだときほどには心は動かなかった。ただ、生きている状態では煩わしいだけだった彼女たちも、永久に僕の手の届かない場所へ行ってしまってからはなんとなく好感が持てるような気がした。
 結局、どこにも夏乃のような女の子はいなかった。この世のどこにもあんなに美しい、あんな危険な生き物はいなかった。
 よくよく考えてみれば仕方のないことだったかもしれない。彼女たちはそもそも夏乃にはなり得なかったのだから。
 それとも、単に僕の観察力不足のせいだったのだろうか。その気になれば、誰だって実の父親の一人や二人くびり殺すぐらいのことはたわいなくやってしまえるのかもしれないし、あるいは僕にはわからなかっただけで、僕が殴った女の子たちの瞳の奥にも本当は氷のような冷徹さと狡猾さが潜んでいたのかもしれない。
 だけれど、ついぞそういうものにめぐり逢うことはなかった。だから僕は、日々の生活の中で夏乃ほどに胸をときめかすものを見つけられなかった。

 大学を卒業すると、不動産関係の仕事に就いた。在学中にしていたアルバイトのつてで紹介された仕事だった。
 地味な仕事ではあったが稼ぎは悪くなく、何より性にあっていた。
 調査会社の調査員という身分で、実際の業務は、平たくいえば立ち退かせる仕事だった。
 価格としては十分過ぎるほどの額を提示しているのに売ってもらえない土地を売ってもらう。あるいは、どうしても出て行かない居住者に立ち退いてもらう、という仕事だった。
 回ってくるのは、いわばワケありの物件ばかりだった。
 ゴネ得を狙っているわけでもなければ、他に行き先がないというわけでも一見ない、ただ何かどうしようもない理由があって出て行きたくないというようなものばかりだった。多少の脅しすかしめいたものも効かず、これはどうにも難物だ。という物件が回ってくる。
 世の中には荒事の専門家のような連中もいるのだが、そこまでやるとコストに見合わない。それか、もう少し穏当にことを済ませたいという場合に、僕のところにお鉢が回ってくるのだった。よくできたもので、荒事専門の連中も、これは手を焼くな、と思った物件は早々に僕の方に回してくれるのだった。かくして世界は仕事で満たされる。
 仕事が回ってくると、僕はとりあえず上がってきた資料をひっくり返す。一言一句目を通して、何か違和感のようなものがないかを探す。そして、そのちょっとした違和感、ちょっと引っかかる、といったものを丹念に洗い直す。
 そうすると、なんとなく見えてくるのだ。居住者を場所に縛り付けるような理由のようなものが。
 例えば、床下、あるいは庭の隅に死体が隠されているような物件はそれとわかった。なぜかしら、そういうにおいがするのだった。
 死体とまではいかなくとも、ちょっとした秘密、ささいな習慣といった、他人からすれば一見なんでもないものが、いとも簡単に人々を場所に縛り付けるのだった。それは呪いのようなものだった。
 理由さえわかってしまえば、あとは楽だった。なんのことはない、縛り付ける理由さえなくしてしまえば誰でもその土地を手放すのだから。
 ある場合には、適度な圧力をかけてやるだけで良かった。庭の何かが埋められているあたりを、何度かそれとわかるように様子をうかがってやるだけで、参ってしまった。そちらの事情はご存じですよ、と切り出すだけで、折れてしまった。
 安心してください。うまくやっておきますから。
 何もかも存じ上げております
 こちらがそう言うと、相手は決まって奇妙な表情を見せた。不安と安堵とが入り交じった、矛盾した表情だった。まるで、秘密が露見したことによってむしろほっとしたかのようだった。
 他人に知られること。彼らは、その瞬間をずっと恐れていたはずだった。破滅にも等しいものとして、絶えず回避し続けていたはずであった。だが、いざその瞬間が訪れてしまえば、もう恐れる必要はどこにもないのだった。いうなれば、破局が安心をもたらしたのだった。
 こうして契約の手続きが始まり――終わる頃にまた会うのだが、あれほど強情で、高圧的で、頑迷だった相手が、まるで魔法が解けたみたいに別人のようになっていた。例外なく、魂の抜けた人形のようなうつろな瞳をしているのだった。
 ふらふらと、押しても引いても手応えがなく、何か重要なものが欠けてしまっているようだった。まるで、おもちゃのぜんまいが切れてしまったように。

 ねじ。時計のねじ。
 そういえば以前、居間の掛け時計のことを夏乃に聞いたことがある。
 この時計、随分古いよね。修理に出したりしないの。
 しないわね――壊れないもの。
 夏乃はあっさりと答えた。そのあっさりとした感じが、僕にはかえって妙に思えた。
 どうして?
 ねじを巻いているから。
 それで僕がどうにも呑み込めないでいると、夏乃は言った。
 むかしね、お父さんがよく言っていたわ。機械式の時計は、生きているんですって。だって、ずっと止まらずに時を刻んでいるでしょう。時計のぜんまいの中にたくわえたエネルギーを絶え間なく使いながら、ひたすらにね。
 でも、電気式の時計は違っていて、水晶(クオーツ)に電気が走る瞬間以外は死んでいるんですって。私もあまり詳しくは知らないけれど、お父さんは機械式の腕時計しか使わなかったわ。
 欠かさずにねじを巻いているから、壊れないのよ。

 忘れがたい光景がある。
 以前、地方の系列会社に出向していたことがあった。
 会社の建物近くに、文字通りのあばら屋に棲んでいる年寄りがいた。
 偏屈で怒りやすく、疎んじられていた。子もなく、連れ添いに先立たれ、ひとりで何十年もそこに暮らしていたのだった。
 かなり年季の入った平屋で、窓硝子の何枚かは割れていた。狭い庭には粗大ごみが放置され、セイタカアワダチソウが生い茂っていた。時折庭でごみを焼いては、近所の住民と口論の原因になっていた。役所の職員もたびたび出入りしていたようだが、注意もきかなかったように思う。
 何の魅力もない土地だったが、通り道ついでになんとなく気になっていた。
 そのあばら屋が、たまたま出火した。
 夜だった。放火だったのかもしれないが、定かではない。本当のことはわからないまま、うやむやになってしまったようだ。
 火事の現場に、僕は通りかかった。野次馬の人混みの中から、吹き上がる炎を見ていた。
 通報が遅れたようで、家の方はもう手の施しようがなさそうだった。
 幸い、老人の方は怪我もなく避難し、家をただ眺めていた。
 燃え上がる我が家を前にして、炎に照らされた彼の顔に浮かび上がっていたのは、しかし、紛れもなく喜びだった。
 それは恍惚だった。間違いなく、それは老人が夢見、待ち望んだことだったのだ。
 僕は、その生き生きとした表情に息を呑んだ。
 焼け跡はその後、綺麗に更地にされた。とはいっても、結局売地のまま買い手はつかなかったように思う。瞬く間に空き地はセイタカアワダチソウが生い茂るままになった。
 その後何度か、老人の姿を見かけることがあった。
 白昼夢の中の幽霊のように空き地のそばにいるのだった。さまよっている、というのが適切な表現だった。
 その顔には、表情というものがなかった。眼は、何も見つめてはいなかった。
 憑き物が落ちた、というにはあまりにも色々なものが欠落していた。
 そこには何も残っていなかった。
 あの火事の夜に何もかも焼け落ちてしまったかのようだった。

 僕について話そう。
 今、僕はそんなに古くないマンションの一室に住んでいる。
 知人に格安で譲ってもらった物件だった。
 打放しのコンクリートの壁に、安っぽいフローリング。箱のような部屋だった。家具を置いていないのがそのイメージを強化する。それをいうならそもそもが集合住宅というもの自体が棺桶のようなものだった。区切られた箱の中で、暮らし、死んでいく。熱帯魚の水槽のようなものだった。四方に区切られた世界の中で、魚は生き、窒息して死んでいく。
 帰れば、テーブルと椅子だけが待っている。
 自分でも殺風景だと思わないでもない。
 しかし、いざ家具を選ぶ段になると、途端に何もかもどうでもよいことのように思えるのだった。実際それで不都合はない。
 たいていの夜は、店で温めてきたコンビニ弁当を食べながら、ぼんやりと考え事にふける。
 棚がないので、本は床に平積みだ。そこかしこに雑然と、本や雑誌が積まれている。ちょうど何かの遺跡のようだ。あるいは墓場。
 画集。そういえば一冊だけ買って、手元に置いていた。あの骨の画家の画集。
 今なら、あの画家の気持ちがわかるかもしれない。
 骨。骨のある風景。骨のある日常。
 そもそも、日常とはそういうものなのだ。いたるところに死のにおいが満ちている。あの画家も別に特別な何かを描いていたわけではないのだ。
 死と暴力が、日常の中に巧みに隠蔽されている。そんなものはまるで見えないふりをして生きている。見えないふりをしながら、それでいて間接的に、直接的に、死と暴力に荷担している。暴力は、誰かから誰かへ押しつけられ、あちらこちらへたらい回しにされ、最終的にはどこかの誰かの家の床下に埋められる。そうして――なべて世はこともなし。
 歴史は土の下のものを養分にして紡がれる。素性のわからない、どこかの誰かの屍の上に成り立っている。何かを下敷きにして、押し潰しながら、その上に立っている。
 動物、植物、あらゆるものの死骸が、土となって堆積する。
 同じことだ。

 日々の生活を送りながら、時折僕は言いようのないむなしさに囚われる。なんでもない空間にぽっかりと空いた真空にふと吸い込まれるような、そんなどうしようもない虚脱感。
 そんなとき、僕は空想にふけるのだ。
 彼女は、何をしているだろうか。
 いまだに満月の夜にやってくる父親を埋め続けているのだろうか。
 夏乃は僕のかわりをうまく見つけたろうか。あるいは、ひとりで殺しては埋めを繰り返しているのだろうか。
 彼女は僕を恨んでいるだろうか。いなくなってしまった僕を。
 恨む、という生々しい感情が彼女にあるというのはどうにも想像しがたいが、その可能性もなくはないだろう。
 あるいは、僕のことなど忘れてしまっているかもしれない。彼女にとって、隣にいる人間が僕である必然性などというものは何ひとつないのだから。
 仮に、新しい男がいたとしたらどうしよう?
 いてもおかしくはない。
 だとしたら、僕はその男を殺すだろうか。殺してしまうかもしれない。殺して、ふたりで森の奥に埋めるのだ。どうせ、片棒を担ぐのが誰であろうが夏乃にとっては構いはしないのだから。
 さて、そのあとはどうしよう。また彼女と共に父親を殺し続ける暮らしを再開するのだろうか。あの家で、何年も、何十年も、老いて死ぬまで同じ暮らしを。
 とりとめのない空想は、とりとめのないまま続いていく。
 別に結論にたどり着く必要はない。所詮は空想に過ぎないのだから。
 そうやって、自分を慰めては、仕事に戻るのだった。
 ――茅井夏乃という人間は本当はどこにもいなかったのではあるまいか。
 あるいはそんな気がする時もある。
 彼女は僕の作り出した虚構の存在であり、あの血なまぐさい記憶というのも僕の脳髄のでっちあげたまったくの作り事(フィクション)なのかもしれない。
 だったとしても、別に僕は今さら驚いたりしない。
 生きていくには幻想が必要だ。
 むなしい現実に自分自身をつなぎとめる仕組み。なんなら、呪いと言ってもいい。生き甲斐などといったものは、要するにそういう健康的な呪いのことなのだ。

 電話が鳴る。
 けたたましい音で、僕は空想の世界から乱暴に引き戻される。
 受話器の向こうから若い女の声が聞こえてくる。はつらつとした、明るい声。
 怒鳴りつけてやりたくなる。
 腹の底の衝動を抑えつけ、気取られないよう頭の中のスイッチを切り替える。
 ああ、君か。うん。元気だよ。
 無論、相手は僕がそんなことを考えているだなんて気付きもしない。
 確認? 何の。ああ、そうだね。うん。なるほど。ああ、ああ、そうだね。うん、そいつはいい。楽しみだ。もちろん。君のいいように。それ、もう式場の方には伝えてある? よかった。お義父さんとお義母さんには? そう。そうか、さすが。手際がいいね。うん。え、お世辞のわけないじゃないか。うん。凄く気が利いてると思う。心配? 心配なんかしてないよ。大丈夫、うん、大丈夫。大丈夫だから。安心して。式ももう来週か、早いね。楽しみにしてる。うん――うん。愛してるよ。じゃあ、また。
 電話を切る。どっと疲労が押し寄せてくる。
 なんて耳障りなのだろう。
 電話などというものは取り払ってしまってもいいかもしれない――いつか、ゆっくりできるときがきたら。静かな休息を、誰にも邪魔されないように。
 現実は雑音に満ちている。時折、どうしても耐え難くなる。耳を塞いで閉じこもってしまいたくなる。あまりにも、しずけさがない。
 もう一度電話が鳴った。
 取ると、今度は仕事の話だった。
 予感があったのかもしれない。
 あるいは、いつかこの瞬間がくるのを待っていたのかもしれない。
 すぐにどこの話かわかった。
 相手は、懐かしいあの土地の名前を口に出した。

 対象者。茅井夏乃。高校を卒業後、実家で独り暮らし。
 父親は失踪。
 書類は多くを語らない。こんなことなら、僕だって知っている。
 備考。対象物件の調査に当たった前任の調査員が消息不明。
 消息不明だなんて、どこに行ったかなんて決まっているじゃないか。
 彼女は魔法のように人間を消してしまえるのだから。
 考えるよりも早く、僕は車を走らせていた。
 なんと話を切り出したものだろう。
 ――やあ、久しぶり。元気にしてた?
 僕のことを覚えているだろうか。
 ――実は仕事でね、きみにここを立ち退いてもらいたいんだ。
 そんなに簡単に事はうまくは運ぶまいということだけはわかっていた。

 あの町に着いたのは、もう夕暮れも近い頃だった。
 何もかも変わっていなかった。
 傾いた日射しに照らされる、くたびれた床屋のポール、電器屋の錆びた看板、全てかつてのままだった。当時のままに古びたスーパーが営業していた。薄汚れた路地に薄汚れた町並み。僕は自分の記憶の中に迷い込んだのではないかという気がした。
 車を走らせる。この辺りの道は僕が高校生のときとまったく変わっていない。十年もの歳月が過ぎたとはとても思えない。
 町を出て、山の方へ。建物の数が少なくなっていく。夕暮れを過ぎて、道路灯の明かりが点く。街の方ではもう使われていないような古臭い蛍光灯の電灯が、時折思い出したように道の脇に立って、誰もいない――誰も通りもしないひび割れた道路を照らしている。それはスポットライトの当たった舞台のようにも見える。役者の上がらない舞台で、照明だけがいつまでも待ち続けているのだ。
 明かりのせいで、暗闇はなお暗くなる。暗闇は、光の不在によって定義される。
 湿気った、どんよりとした暗黒。なめらかな、液体のような闇。こんなにまとわりつくような暗闇には、久しく触れていなかった。
 だけれど、僕はこの景色を知っていた。懐かしく感じてすらいた。
 記憶の中の道をなぞりながら、車を走らせる。何度も通った道なのだ、勘が狂うことはない。
 林をいくつか抜けて、例の建物が見えてくる。
 記憶の中のあの家がやってくる。
 近くへ、近くへ。
 胸が高鳴る。その理由は、僕にはわからない。不安なのか、期待なのか、それともそれ以外の何かなのか。
 遠くに車を停める。落ち着くために。
 心に準備が必要だ。
 車のライトを消すと、辺りは真っ暗になった。
 星は見える。だが、光は大地まで届かず、暗闇を照らすことはない。
 静寂。
 貪欲な森は息を潜めていた。
 風が吹く。
 家屋の薄明かりがぼうっと洩れている。
 僕は歩き出す。
 玄関が見えてきた。やはりあの頃と全然変わっていない。
 眩暈がした。夢の続きを見ているようだった。
 ひょっとして、今でも僕は高校生のままで、今晩も夏乃の父親を埋めに彼女の家を訪れているのではないかという気がした。そうしてまた後をつけてきた広野ゆみに見つかり、彼女を何度でも生きたまま土の下に埋めるのだ。
 余計な空想を振り払う。今晩は仕事でここに来ているのだ。
 唾を飲み込む。
 意を決して、声をかけよう思ったそのとき、がらがらと音がして戸が開いた。
「――あら」
 夏乃だった。歳を重ねてはいたが、夏乃は夏乃のままだった。突然のことに頭の中が真っ白になった。用意した台詞もどこかに吹っ飛んでしまった。彼女は微笑んだ。
「おかえりなさい。はやかったのね」
 まるで、昨日もその前も、その前も同じやりとりをしたかのようだった。
「どうしたの? そんな狐につままれたような顔して」
 黙っていると、怪訝な顔で見つめる。
「ねえ、本当に大丈夫? 具合でも悪いの」
 ああ、と答える。大丈夫だよ。何も問題はない。僕は靴を脱いで、上がった。
 玄関は変わっていなかった。それどころか、何もかも変わっていないように見えた。
 奥からは炊事の香りがした。魚の煮物だろうか。ぐうと腹の虫が鳴った。そういえば自分がすっかり空腹なことに気付いた。彼女はくすくす笑いながら言う。
「お風呂も湧かしてあるけど、先にご飯にしましょうね」
 どたどたと廊下を走る音が近付いてくる。同時に何かキャッキャと笑う声。
「お父さん、おかえりなさい」
 小さな子供が二人、僕の方に駆けてくる。男の子と女の子だ。女の子の方はどことなく面影が夏乃に似ている。おかえりなさぁい、と言いながら子供たちは僕の足にとりつくと、僕の顔を見上げながら、無邪気な声のユニゾンでいう。
「お父さん、『ただいま』は?」
 ああ、うん、ただいま、と言われるがままに従う。子供たちはなおも僕の足にひっついている。困っているのを見かねて、夏乃が助け船を出してくれる。
「はいはい。お父さんはお疲れですから、ほどほどになさい。もうすぐご飯ができますからね、支度してお待ちなさい」
 はぁい、と元気よく返事をして僕の足から離れると、背を向けて走って行く。その背を眺めながら、夏乃はつぶやく。
「まったく、元気過ぎるのも困りものね」
 僕は何かを言いかけた。でも続く言葉が見当たらなかった。
「もう九つにもなるのに、いつまでも小さな子供の気分でいるんだから」
 いつまでぼうっと立ってるの、早くご飯にしますよ、と夏乃は言って、台所へと戻っていった。
 チカチカ光る玄関の電灯の下、僕だけが取り残される。いつ入りこんだのか、一匹の大きな蛾が電灯の周りを羽ばたいている。
 帰ろう。
 帰った方がいい。今すぐに。ここはおかしい。絶対におかしい。
 だが、子供がいたのか。確認していなかったのは迂闊だった。せめて、表札を見ていれば気付いたかもしれない。
 歳は九つと言っていた。そうすると、もしかしたら――
 余計なことを考えている場合ではない。早く帰ろう。一刻も早く帰るべきだ。
 靴をはき直して、戸に手をかける。そのとき後ろから声がした。
「お父さん、何してるの?」
 振り向くと、先ほどの小さな生き物の片割れがこちらを見つめていた。女の子の方だ。いやに黒目が大きい。潤んだ瞳が海獣のそれを思わせた。海獣の眼は、焦点が合わない。見ていないようで、見ている。見つめるようで、見つめていない。
 いや、ちょっとね。なんでもないよ、と僕は慌てて取り繕う。
 しかし疑いが晴れなかったようで、不審そうにじっとこちらを見ている。
 早く部屋に戻れ、と心の中で念じた。すると、言った。
「お母さん、なんかお父さんがヘン――」
 首を絞めて黙らしてやろうかと思った。いや今行く、今行くから、と言いながら、僕は慌てて靴を脱ぐ。
 とはいえ、どこへ行くべきか。さしあたり、奥の書斎のドアを開けた。夏乃の親父の部屋だった。
 何も変わっていない。僕が出入りしていたときと何ひとつ変わっていない。まるで、記憶の中のそのままに、部屋はほこりひとつない。
 壁には、あの森の絵が飾ってあった。
 布はかけられていなかった。
 画面の奥に、ぽっかりと暗黒が口を開けていた。
 支度された浴衣に着替えると、居間に向かった。
 食卓にずらっと並んだ夏乃の手料理は、実に旨そうに見えた。さっきから漂っていたこうばしい香りの正体は、かれいの煮付けだった。
 念のため、どの料理にも、先に誰かが手を付けてから、手を付けた。
 どうやら料理は安全そうだった。それどころか、どれも大変に美味しかった。
 小僧どもはわいわいたわいもなくしゃべくっている。そんな光景を夏乃は目を細めながら眺めている。なんてのどかな風景だろう。
 自分が不必要に怯えているようで、ひどく滑稽に思えてきた。
 古い掛け時計が時を刻む。
 やがて子供たちが床に就き、静寂が訪れる。いつのまにかすっかりくつろいでしまった。
「お茶、淹れますか」
 うん、と返す。それは驚くほど自然で、まるで僕はこの何年もの間、ずっとこのやりとりを続けてきたのではないかという気がした。
 これは帰りづらくなったな。
 そう心の中で独りごちてから、ふいにひとつの疑問が浮かんだ。
 帰る? いったいどこに?
 その答えを、僕は持っていなかった。
 僕に帰るべき場所なんてあったろうか。
 思い出そうとしても、何ひとつ明瞭な像を結ばなかった。
 殺伐としたマンションの部屋も、つまらない婚約相手のことも、あばら屋の老人のことも、仕事のことも、高校を卒業してからの日々のことも、すべてがピンぼけした風景のようで、うまく実感を持って思い出すことができなかった。
 僕は、これまでの日々を本当の意味では生きてこなかったのかもしれなかった。
 ピーッと鋭い音で薬缶が叫ぶ。とりとめのない思考が、切り裂かれる。
 夏乃が台所へと向かう。
 緑茶が出される。
 すする。濃い。随分と濃い。苦い。
 一瞬顔をしかめたのを、彼女はちらりと横目で見た。
 口の中の液体はもう嚥んでしまっていた。
 よほど酷い顔をしていたのだろう。ご冗談、とでもいうように夏乃は笑みを浮かべる。艶のある微笑だ。
 夏乃のしなやかな身体が僕の背中に寄り添う。華奢な腕で僕に絡みつく。その膚は冷たい。ねえあなた、と耳元で囁く。その声に僕はしびれてしまう。その声はきっと森の奥深くから聞こえてくる――途方もない暗黒の奥底から。呼ばれるたびに僕は何度でもあそこへ連れて行かれるのだ。
 もうわかっていた。夏乃の頼みがなんであれ、僕は聞いてやるだろう。出て行けと言われれば出て行くだろうし、死ねと言われれば死ぬだろう。そのために戻ってきたのだから。
 だが僕はきっと、また森へ通うことになるのだろう。あの懐かしいスコップと懐中電灯とを携えて、どこかの誰かを埋めに行くのだろう。
 行為は繰り返される。執拗に、儀式のように。何度でも何度でも、時計のねじを巻くように。いつしか避けようのない終わりが訪れるまで。この欺瞞に満ちた夢が醒めるその日まで。
 でも、それまでは――
 大きく息をひとつ吐く。
 そうして僕は、夏乃を強く抱き寄せる。

<了>

狩野宗佑「彼女は森の暗がり」第四回  2018/11/3


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