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【ダイジェスト版】「学習を忘れた人たちと論理」という話

理性的に考える力を養おう

  noteを読んでいると明らかに論理的ではない(ことを書いている)人が多いです。その根拠(または理由)について詳しいことは後述します。全く根拠を示さずに直感だけで何かを主張している人や、根拠にならないようなこと、例えば「日常生活からの学び」みたいな記事で自分の偏見(かもしれないこと)を根拠にしている人などが多いです。

 根拠立てて物事を考えられないような人は論理的ではありませんし、そのような人々はハッキリ言って未熟すぎます。今は、本当に未熟な人が多いです。自分一人で、直感的に、感情的に、感性だけで物事を理解できると考えたりするのには限界があります。哲学者の岡本裕一朗は次のように述べています。

グローバル化する世界において、対立でなく理解を促進するためには、「対話」という手段が欠かせない。そして対話は、語学だけの問題ではない。たとえ言葉が話せても、相手の考えを理解し、議論することができないのであれば、理解など進まないのである。人間が感情でわかり合えるというのは、かなり限定的な状況下においてのみ。基本的には、互いに考えを持ちより、議論を尽くすしかないのだ。
(岡本裕一朗 『哲学の世界へようこそ。』)

 感情的に、直感的に、感性だけで分かることなんてかなり限られています。だから理性的に物事を考え、議論できるようになる必要があるんです。

 では、具体的にどのように考えを決め、議論を尽くせばいいのでしょうか。岡本は考えるステップを次の4つで説明しています。

ステップ1 直感をもとに立場を決める
→「君がその立場を選んだ根拠は?」                 ステップ2 根拠に説得力を持たせる
→「その根拠はどれだけ妥当か?」                  ステップ3 別の観点から問い直す
→「より納得のいく根拠はないか」                  ステップ4 使える結論を導き出す
→「感情ではなく理性にもとづいた結論か?」(岡本裕一朗 『哲学の世界へようこそ。』)

 まず、議論で何かを主張する際に大事になるのは立場を決めることです。立場がはっきりしていない人とは議論できません。だから立場をまず、直感的に決める必要があります。

 しかし、直感的に「なんとなくそう思うから」と言うだけで議論に参加されても他の人は困ります。だから、その立場を選んだことの正当性を示すために根拠が必要になるのです。「なぜ、その立場を選んだのか?」という問いに「何故なら○○(根拠)だから」と答える必要があるわけです。

 議論の基本は、「何故?」に対して「○○(根拠)だから」という受け答え、問答することです。根拠を示さずに議論はできません。根拠を示さなければ、ただお互いに言いたいことを言い合うだけの「水掛け論」になるだけです。哲学者の野矢茂樹は次のように指摘しています。

お互いの主張をただ言い合うだけで平行線をたどるとき、それは「水かけ論」と呼ばれる。水かけ論から抜け出すためには、なによりもまず、自分の主張に対して根拠を示さなければいけない。
(野矢茂樹 『大人のための国語ゼミ』)

 まずここまでのことができて、やっとステップ1ができたことになります。

 次にステップ2です。ステップ2では、そう主張することの根拠の妥当性を問います。根拠が妥当ではないものに説得力はありません。

 実は根拠にも良い根拠と駄目な根拠があります。駄目な根拠、例えば「示された根拠が間違ったものであれば、それは根拠にはならない」駄目な根拠だと野矢は指摘しています。

 嘘は根拠になりません。自分の主張を押し通すために、根拠を捏造し、他者を騙すようなことは議論では許されません。また、本人は嘘をつく気が無くても結果的には「嘘だった」と言う場合もあり得ますので、根拠を示す場合は、根拠が本当か嘘かちゃんと調べて見極めることも大事です。

 他にも循環論法(論点先取)になっている根拠は駄目な根拠です。循環論法とは「A(根拠)だからA(結論)なのだ」というような同じことを繰り返し言っているだけのことで、結論を先取しているものは実質根拠の役割を果たしていません。そういう根拠は駄目な根拠です。

 他にも、自分一人の経験を一般化した根拠や、少数の事例、偏った事例を根拠にするのも駄目な根拠です。何にしても、自分以外に違う経験をしている人は大勢いるので、自分の経験だけを根拠にして議論をしてはいけません。

 自分の(日常的な)経験から何かを学んだ気になっている人は多いですが、自分の経験から学べることと言うのには偏見が入り込む余地が大きすぎるので、第三者の意見を聞き、広い視点を持つ必要があります。(他人の意見や考えを聞いたり、知ったりする必要があるのもこのためです)。

 そして、根拠は客観的なものでもなければいけません。例えば「私は感受性が豊かだから(根拠)」とか「○○大学卒業だから(根拠)」とか、そのようなことを根拠にしても客観性がありません。第三者からすれば本当に「感受性が豊かなのか」「○○大学卒業なのか」なんてわかりません。そんなことはいくらでも嘘をつけるので信用ならないというわけです。根拠が客観的に見て信用できないのであれば、その人の主張そのものの信憑性も下がります。

 また、駄目とまでは言えないにしても説得力が弱い根拠と言うのもあります。例えば、「あの子はよく俺と目が合う。ということは、あの子は俺のことが好きに違いない」という人がいたとします。この人は「よく目が合う(根拠)」から「あの子は俺のことが好き(結論)」と考えていますが、本当にそうなのでしょうか。

 単に「俺」が「あの子」をジロジロ見ているから目が合う確率が高いだけかもしれません。もし、そうだとすると「あの子」の心情は「あの人(俺)がめっちゃこちらを見てくる。気持ち悪い」と思われているかもしれません。

 それとも単に目が合うのは、「俺」の頭の寝ぐせが気になっているだけで、本当は好きだから見ているわけではないというもっともらしい仮説も考えられます。

 このように、「目が合う」理由が他にも考えられる場合、「目が合うから」という根拠から「俺のことが好き」という結論を導き出すには、根拠としての説得力が弱いと言えます。

 本当にその根拠からその結論を導き出せるのか、という根拠と結論の結びつきについて考え、その結びつきが弱ければ、それは弱い根拠ですのでもう少し説得力の強い根拠を探す必要があります。(ちなみに弱い根拠の説得力を増すために「根拠の根拠」を示すという方法もあります)。

 この別の根拠を探すというのが、ステップ3です。より納得のいく根拠を探す必要があるわけです。野矢は根拠について考える際に重要になるポイントを次のようにまとめています。

・根拠は誤っていないか
・循環論法(論点先取)になっていないか
・根拠と結論の結びつきは弱すぎないか
・仮説形成で、他のもっともらしい仮説を無視していないか
・少数の事例、偏った事例からの一般化(帰納)になっていないか          (野矢茂樹 『大人のための国語ゼミ』)

 ここまでしてやっとステップ4、感情に基づかない、理性に基づいた結論を導き出すことができます。

 ちなみにですが、ちゃんとした根拠が見つからない場合は、最初に直感的に選んだ立場は間違っている可能性が高いです。根拠を探していて別の立場の方が正しかったということが証明できる(根拠が見つかる)場合もありますので、そういう場合は根拠に基づいて理性的な結論を導き出しましょう。

 議論でも理性的に考える時でも根拠が大事です。直感的に考えたり、直感的に議論したりしてはいけません。

 根拠のない感情的(直感的)な推測は憶測です。根拠のない感情的(直感的)な意見は独断です。野矢は次のように述べています。

事実を述べる場合と異なり、推測の場合も意見の場合も、聞き手はまだあなたの主張に納得してくれていないかもしれない。だから、その主張の説得力を増さなければいけない。そのために、根拠を述べる。根拠が示されていない推測は憶測にすぎず、根拠が示されていない意見は独断でしかない。
(野矢茂樹 『大人のための国語ゼミ』)

 根拠のない感情的(直感的)な批判は非難です。岡本は次のように述べています。

 重要なのは、「論理的な批判」と「感情的な非難」は別物である、ということだ。相手の意見のどこがおかしいのかを明確にすることは、相手に対する攻撃ではなく、むしろ「誠意」である。
(岡本裕一郎 『哲学の世界へようこそ。』)

 岡本はさらに次のように述べています。

 そして、反論するからにはキッパリと根拠を示して批判しなくてはならない、ということも。これは大人も子どもも関係ない、誰かの意見に異議申し立てをする上での共通作法のようなものである。
(岡本裕一朗 『哲学の世界へようこそ。』)


 根拠のない感情的(直感的)な反論は、ただの反対です。「なんとなく相手の意見には同意できないから」と言うだけで相手に「NO」というのは論理的な反論ではなく、ただ反対しているだけです。野矢は「反論」を「相手の論証を批判した上で、対立する主張を根拠とともに述べる」ことだと定義しています。その上で、「反論」と「反対」は違うとも指摘しています。

 論証を批判することなく、ただ相手と対立する主張を述べるだけの場合を、「反論する」と区別して「たんに反対する」と言うことにしよう。たんに反対するだけなら水かけ論に終わる。水かけ論を抜け出して話し合いを前進させるためには、反論しなければならない。
(野矢茂樹 『大人のための国語ゼミ』)


 確かに「たんに反対する」だけなら水かけ論になるだけです。「俺はこう思う」「いや、私はこう思う」「いやいや、俺はこう思う」という水かけ論が永遠に続くだけです。だから、根拠を示して相手の主張のどこが間違えているのか反論する必要があるのです。

 議論の基本は、この反論のし合いです。お互いに根拠を示しながら自分の主張の正当性を示し、相手の主張の間違いを根拠を示しながら説明する。そうやって、お互いに反論していき、どちらか一方が相手の反論に反論できなくなったときにはじめて両者が納得のゆく結論が出るのです。

 この「反論」は岡本が言うように「攻撃」ではなく、相手への「誠意」です。そもそも、どうでもいい相手に反論なんかしません。「勝手にそう思っていれば?」と相手を適当にあしらうのであれば、反論なんかする必要ありません。

 ここまで説明すれば「根拠」が何故大事なのかわかっていただけたと思います。根拠は論理的に議論をしたり理性的に考えるために必要なんです。根拠立てるということは人間が論理的であるためには大事なことなんです。

 感情的(直感的)な主張(憶測、独断、非難、反対)をする人とは議論はできません。そのような人を議論に入れてしまうと、論理的な議論は不可能になり、論理性を欠いた感情的(直感的)な暴論になるだけです。

 根拠は感情的(直感的)な行為(憶測、独断、非難、反対、暴論)を理性的な行為(推測、意見、批判、反論、議論)へと変えてくれるものです。だから根拠は大事なのです。今一度、自分が普段書いているnoteの記事に、ちゃんとした根拠は示されているのか、自分の考えていることに根拠はあるのか、根拠と結論の結びつきは問題ないか等、見つめ直してみてもいいのではないでしょうか。

 根拠を示さずに相手に察してくれと言っても限界があります。まだ、お友達ならある程度は察してくれるかもしれませんが、社会はお友達だけでは構成されていません。だから根拠を示す必要があるんです。お友達同士の会話に閉じている人は未熟なんです。野矢は次のように指摘しています。

 未熟なんでしょうね。仲間内や「おともだち」の中だけで閉じるのは。(中略)人間が成熟してくるということの大きな側面は言葉が成熟するということです。言葉が未熟だったら、人間も未熟なままです。日本の人たちが、私も含めてもっと成熟していくには、言葉が成熟していかなければいけない。
(野矢茂樹 『大人のための国語ゼミ』)

 直感的に根拠を示さずに、憶測、独断、非難、反対、暴論を述べることは簡単です。そんなことは誰でも出来ます。だから実際、直感的な主張や偏見を言っている人は多い。(「多い」という根拠を示すと、例えば、「マイクロアグレッション」ということが問題視されていたり、情報ソース(根拠)を大事にしないからnoteが陰謀論の温床になっている(https://news.yahoo.co.jp/articles/23eeeb0405a1d1a4c94221a28c1590162dd53435)というような実態があることが根拠に挙げられます。)

 でも、そんな非論理的なことは全く理性的ではないですし、未熟です。もう少し、理性的で成熟した考え方、記事の執筆の仕方ができる人が増えないといけないと思います。


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参照

・野矢茂樹 著 『大人のための国語ゼミ』 山川出版社  2017年8月1日

・岡本裕一朗 著 『哲学の世界へようこそ。答えのない時代を生きるための思考法』 ポプラ社 2019年11月13日

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