文学の定義

 高校の教科書に掲載されている國分功一郎の「来るべき民主主義」。その中でカール・シュミットの「政治的なもの」が引用され、政治の概念が規定されている。
 どんな分野も、そこで扱われている諸問題を突き詰めていくと、ある究極的な区別に到達する。その究極的な区別こそが、その分野を特徴付け、また定義する。
 たとえば、道徳の分野ではいろいろなことが問題になる。だが、それらを突き詰めていくと、最終的に見出だされるのは「善と悪」という区別である。何が善で、何が悪か、道徳が問うているのは結局はそれであり、その上に複雑な理論や教訓が積み重ねられているのである。経済の分野ならば「利益と損失」、つまり、採算が取れるか取れないかがこの究極的な区別にあたる。様々な複雑な理論が経済の分野で論じられているが、根源にあるのはこの区別に他ならない。あるいは美学ならば「美と醜」が究極的な区別であろう。要するに美しいか醜いか、それが問題なのだ。
 以下、シュミットは政治を「敵と味方」で規定していくのだが、それについては國分の文章を参照してほしい。それにしても非常に明快で説得力がある。経済や美術といった政治とは異なった分野に対しても明確な定義づけとなっている。この作品を授業で取り扱っているときに、ふと思った。「では文学における究極的な区別とはなんなのだろう」と。
二十年以上、国語という教科と携わってきた。「国語」とは文字通り「国家の言葉」であり、“ナショナル・ランゲージ”の習得を目指すものである。しかし、その中で取り扱われる「文学」とは何なのか。大学の授業で、児童文学を専門にしている教授は、「文学とは人間学だ」という主旨の発言をされていた。が、それなら人類学や社会学と一緒になる。確かに文学は人の手による人為的な営為であるが、それは美術や音楽も同様で、文学だけを「人間学」だと言い切って特権化することは傲慢だと思う。むしろ活字や言語を対象とする文学よりも、人間そのものを対象とする人類学や社会学の方が、「人間学」だと標榜するのに相応しい。
 そうした逡巡というか漠然とした迷いを抱えながら、教壇に立ってきた。いい加減なものである。力量不足だと言われればそれまでだろう。僕にとって、文学は手に余る代物だったのかもしれない。しかし、シュミットの定義に則ると、少し光明が差してくる。捉えどころのなかった文学について、ある種の定義付けが可能になる。色んな意見があると思われる。が、僕の考えでは、文学における究極的な区別は「個別と普遍」になると思う。文学が対象とするのは、あくまで個別の人間であり、個別の世界で生きる個別の人間の様相が描かれる。しかし、それはごく“私的な物語”としてではなく、普遍へと通じる個別の物語でなければならない。優れた文学作品ほど、個別の物語を題材としていながら、普遍的な人間の本質が描かれている。そう考えると、小説が虚構であるのも肯える。事実は一つで、時間や空間のといった制約から逃れることはない。それに対し、虚構である小説は、虚構であるからこそ、普遍へと繋がる。小説だけにとどまらず、俳句や短歌、詩といった韻文も、言語で表現されている以上、事実ではなく虚構である。作者の経験といった個別の事実から出発して、言語という媒体を通じて虚構による普遍的な世界を構築する。それが文学なのだ。実用性と無縁でありながら、文学が生きながらえてきた理由もそこにあると思われる。
 文学の歴史は千年を超える。その中で数多の作品が誕生し、消えていった。そうした中で、我々の中で生き残っていくのは、普遍へと繋がる人の営みや世の有様が描かれたものだ。読者に普遍との邂逅を感じさせる。そうした作品が時空を超越して読み継がれていくのだ。

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