劇場版映画大好きポンポさんの感想

スポットスポットで涙腺を握られるシーンがあったのだけど、全体を通して落ち着いて思索してみると9.9割批判の文章になっちゃった。

※以降、監督・脚本である平尾監督のことを区別のためにただの「監督」と表記する。

【よかったところ】

■画が綺麗

光の描写、水の描写、空気感なんかは新海監督に端を発する今っぽい雰囲気で素直に綺麗だなーと思える。


■動きが生む変化

これは漫画で表現するには難しいところ。マーティンブラドックのスイッチがオンになるところとかわかりやすい。


【よくなかったところ】

■原作と監督の見せたかったところの乖離

原作:心を打ちぬく画を撮る・見せたい
(原作者のやりたいことであり、ポンポさんのやりたいこと)

監督:生む苦しみ知ってもらいたい・共有したい
(監督のやりたいことだが、登場人物中、誰もそうしたいと思っていない)

原作では終盤のカラーページが絶頂ポイントなんだけど、映画ではそこをさらっと流しすぎ。
どういう風に魅せてくれるのだろ、と思ってたんだけどね。

原作のカラー見開きように、色鮮やかに、スローもしくは停止した画で、音がなくなる、かと思ってたけど、そんなこともなく。

原作知っている身としては、
「絶頂ポイントくるっ!(シコシコシコ!)」 → サラサラっ → 「お、おぉ・・・そ、そうか(しこしこしこ)」
って気持ち。

で、その後の監督が見せたい長く続く「切り落とし」シーン。
切り落としのシーンは派手で挿入歌も入って、わかりやすくて否が応でも盛り上がるところ。
そして苦しんで苦しんで苦しんだ先でどんなものを見せてくれるんだろー、と思っていたら、その果てあったのは「ニャカデミー賞の授与式」と「腕伸ばし芸のポンポさん」

観てる側からしたら、
「お、やっと来るか!(しこしこしこ!)」 → 腕伸ばし芸 → 「・・・(しこ・・・)」
またしてもイきそびれるわけである。

「生む苦しみ」があるのは承知しているし、それがドロドロでグチャグチャであるほど、生み出されるものの輝きは増すと思っている人なので、そこは大いに共感できる。
世の多くの人がその苦しみを味わったことがあると思うし、そしてそれに耐えられるのは、その先に生まれるものがどんなものであれ、素敵であることを確信しているからだと思う。

それがこの映画ではどうだろう。
監督は「成果」ではなく、「生む苦しみ=過程」に気持ちよさを見出しているようにしか見えない。
うん、でもまぁ、そういう人がいてもいいとは思う。


■切り落としたジーン君とこぼれ落としたジーン君

劇中、ジーン君は「映画を撮るために他を切り捨てた」みたいな描写がある。
でもそうではない。

ジーン君は愚鈍な人である。
普通の人であれば、両の手のひらでこぼさずいられるのに、ジーン君はそれが指の間からこぼれてしまう。

こぼして、こぼして、その果てに残ったが「映画」。
そして、果ての雫をこぼさないように逃がさないように置いていかれないようにしっかりと握っているのがジーン君である。

だから、ジーン君は映画に対して真摯であるし、狂気を孕むほどのオーラが生まれる。

それを踏まえて気になったシーン。
ジーン君にとって、数々の名作を生みだしたペーターゼン氏は神様と等しい存在。
そんな神様の名前間違いのフリにジーン君が言葉を被せるところ。

あれは確かに笑いにはなる。実際に笑っているお客さんもいたし。

でも愚鈍で卑屈なジーン君は、訂正はするにしても言葉を被せるような、ましてや先回りして口をふさぐようなそんな空気を読むような真似はできないし、神様に対してそんな不敬なことは絶対にしない。

そんなわけで主人公の立ち位置に至るまでの過程からして解釈違いを起こしているように思う次第。


■監督のオナニーを見せられる気持ち悪さ

色々と思索してみたけど、結局ここに行きついた。
別にオナニーでいいんですよ。でもそこには共感できるものとそうでないものがある。
この映画は自分にとって共感できないものであった。

ダルベールの土下座のシーン、「ヤギに舐められる感触」とか今まで切り捨ててきた物の大事さを吐露する。ダルベール再起にとって大事なシーン。

なんだけども、スタッフみんなでアイデアを出し合って作ったカットを苦渋のすえ、切り捨てるジーン君の描写。

あそこは削っちゃダメでしょ。オーケストラはみんなで作るもの、それを象徴するわかりやすい暗喩の部分ですよ。
ダルベール再起までのエピソードが劇中でほとんど描写されてないわけだから、劇中劇とはいえ、そこ削っちゃたらスッカスカになるのが目に見えてわかってしまう。

で、なんでそんことになったかというと、ジーン君の「僕のアリアには足りないものがある」宣言。
なぜかジーン君が劇中劇に自分を重ねているし、そして足りないものってのが「切り落とすエピソード」。

もうこうなると完全に「ジーン君=監督」である。

そこから繰り広げられる監督のエクスタシー溢れる切り捨て編集シーン。
で、スタッフロールが終わる前に立ち去る人を感動で釘付けにしたいと来たもんだ。

この場合、「立ち去る人=ポンポさん=現実の観客」となるわけだけど、ポンポさん、ハイスクールすら卒業していないお歳の少女。
その少女に対して、自分のエクスタシーを披露して感動させたいとか、まじ気持ち悪い。
別にポンポさん、これまでに何かを切り捨ててきたわけでもないし、天才ですし。

さらに劇中劇の脚本を書いたのは、ポンポさん。
他人の敷いたレールに自分のエゴを付け足して、それをレールを敷いた本人に見せてドヤる。
もう滑稽でしかない。

さらに現実でも同じ構図になってる。
他人のふんどしで、独り相撲。まじウケる。

これを意図してやっているなら、「うわぁ、捻くれてるなぁ」と思うし、
寿司ざんまいポーズでドヤっているならやっぱり「うわぁ」と思う。

最後の「90分」発言。
原作では、ジーン君にとって楽しい楽しい編集作業の直前、「どう料理してやろうか、ぐふふ」となっているところで、コルベット監督の言葉を思い出して、方向性を決めたことで活きる言葉。

ジーン君は映画大好きだから1秒でも長く観たい人。
でもコルベット監督のメッセージは「一番見てもらいたい誰かのために作る」
そして最後の「90分」発言。

この流れがあるからこそ、「あぁ、ジーンくんは自分のエゴを押し込めて、ポンポさんのために完成させたんだな」と読者は思うわけです。

カラー見開きページを撮るために色んな人がいろんな物を積み重ねていって、最後の最後でただ一人のために仕上げる。
こんな贅沢なことないですよね。

では、映画のほうはどうだろう。
パーティ中、コルベット監督との会話中にフォーカスがあたるポンポさん。
わかりやすすぎる。
劇中劇に自分を重ねて追加シーンを撮りたいと言うジーン君。
もうここでポンポさんのためではなく、自分のためというエゴが出てしまっていて、原作知っている身としては興ざめもいいとこ。

そして「切り捨てる」と監督自らが主張しているのにも関わらず、使いまわされるシーンの数々。
最高潮であるフィルムをバッサバッサ切り裂くジーン君、Deleteキーを叩く指の動き、マウスの軌跡、そのどれもが同じ動きをなぞるだけ。
それ、15秒CMのときにも同じことしてたよね?

苦悩を描くのに繰り返しを表現として使うのは、わかりやすいけど単調でつまらない。
繰り返しを描くのであれば、そこに変化も合わせるべきで、汗ばんだり、動きが早く/雑になったり、黒いオーラ出したり、いかようにでもなったはず。
正直、90分作品なのに「まだ終わらないのか」と思ったほど。

ポンポさんの「90分」という言葉が呪いの言葉になっている。
自分のエゴを出すのであれば、90分という制約なんかとっぱらって、とことんやるべきだったと思う。
実際の映画も多分あの時点で90分。監督のドヤ顔が見えるようでなんとも気持ち悪い。
あんな繰り返しを入れるのであればもっとやれることあったよね、と思えて仕方ない。

■最後に残ったもの

切り捨てて切り捨てて得られたものって、なんだったんでしょうね。
生まれたものが提示されたわけではないですし。

アラン君とのツーショット写真、とでも言うのかしら。
リア充に人差し指をかけたジーン君に今後映画は撮れるのかしら。
あらやだ、ポンポさんの言葉全否定。

監督自身のやりたいことを描きつつ、原作のエッセンスもいい感じに描写?
誰に向けて作ったんでしょうね。
あらやだ、コルベット監督の言葉全否定

積み重ねた苦労を認めてもらいたい若い方が監督をされたんだろうな、と思って調べてみたら自分と同年代。

そっか、そうだね、若いっていいよね(にっこり
という気持ちになりました。

なんか、続編作る気まんまんの終わり方したけど、次どうするんでしょうね。
原作2巻でやることをもうやっちゃってるんですよね。

商業映画を撮らされて、何もできない不自由さに嘆いたジーン君。
自分でゼロから映画を撮ることを決意。
書いては消して書いては消してを繰り返して、
その果てに煌めきを見たジーン君。
煌めきとそこにに至るまでの道を撮って、ポンポさんに見せるジーン君。
ポンポさんはそこで宝物を手にして、ジーン君にこう伝える。
「ポンポさん、映画大好き!!」

ほんと、続編で何するんでしょうね。

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