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なんで教育がいいの?

記事のお引越しが思ったように進まないです、こんばんは。
今日も、頻繁に質問を受ける、大事な価値観について書こうと思います。

ぶっちゃけた話、大学入学するまで、「絶対教育なんて関わらないだろうな」と思ってました
(大学時代の私を知っている方々に話すと、死ぬほど驚かれます)
それが、今や一生関わっていくテーマになってしまったから、不思議です。

■私の教育との出会い

教育との出会いは、受験期の本との出会いから始まりました。

じつは受験初期、日本文学科を受けるつもりで準備をしていました。
日本語や、日本文化が好きだったので、なんとなく…と心配になるくらい、ゆるふわな軸でした。
そんな状態だったので受験勉強も身に入らず、行き詰ったときに、たまたま、とあるブログの記事に出会います。(受験の時にネットしてるなよ…)

そのブログは、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』という専門図書の書評を書いたブログでした。
この本は専門図書で当時手に入れることができませんでしたが、ブログを通して「こんな考え方があったんだ」と衝撃を受けます。

私は、「学習とは、自分の手で社会を紐解き、歴史を変革していく営み」だというフレイレの考え方に出会いました。

学習することは、社会に適応するため。
学ぶ営みは、受動的に授業を聞いて、効率的に正解を提出すること。
そう思い込んでいた自分にとっては、この考え方は衝撃的でした。


「主体的に自から学び、そして振り返ることで蓄積していく」
「学習によって自分の置かれた状況を理解し、社会を切り拓いていく」
そんな考え方に触れて、「ああ、自分で学びを見つけに行くことって、悪いことじゃなかったんだ」と、自分を許せるようになりました

田舎の固定された環境の中で、ずっと「箱に収まらない感」がありました。
人が好きだからそれなりに友達関係も作れる、そこそこ勉強も好き、先生たちも大好き。でもずっとモヤモヤしてました。
元々の性格が、好奇心旺盛で、多様なメディア・人に触れたかったんだと振り返って思います。
今思えば、雄大な自然界を求めて、「こっから出してくれー!」と檻から脱走しようとするゴリラみたいな状態だったんだと思います。

既定路線を続けるの無理、閉鎖的な環境が苦手、前例ぶっ壊して新しい価値を開発しようとする、浅く広くな交友関係が楽しい。そんな自分の価値観が嫌いでした。
でも、フレイレの考え方に触れて、今までの考え方を「新しい学びを得るための営みである」のだと思えるようになりました。

そして、進路を変更し、この考え方を学べる学科は社会学だと思い込み笑、母校の心理・社会学科に入学します。
そして、教職関係の過程を履修する中で、再びフレイレに出会い、教育の世界にどっぷり浸かった人生が始まりました。




■偶然が、一生になる

そして、私は教育学を学ぶ中で得た、たくさんの素敵な人たちの出会いと、過去の巨人たちの知見に支えられました。
大学の先生達、本の中の教育者たち、一緒に教育を学んだ仲間、実践の場で頑張ってる教育者の先輩たちは、本当にかっこよくて尊敬できる部分が沢山ありました。
偶然から開花した、人との出会いによって、社会人になった今でも「教育っていいなぁ」って思うような人間になっちゃいました。

社会人になっても教育に関わりたがってるものですから、「なんで教育やろうと決めたの?」とよく聞かれます。
その答えは「偶然が重なって、教育やるって自然に決まっちゃった」と答えるのが、一番腑に落ちます。(スピリチュアルとかではないですよ!!!)


ほんの一瞬の出会いが、一生ものになる。
「絶対教育は関わらないだろうな」と思っていた人間が、まさか教育学をがっつり学び、学会にも勉強しに行って、大学院進学まで諦められなくなっているのだから、人生何が起こるか分からないものです。

そして、教育の世界で出会った人達から与えてもらった学びを、今度は社会に返せるような人間になれたら理想だと思っています。


■まとめ

私が、教育をやろうと思ってるのは、偶然の出会いが導いてくれたからです。
たぶん、これからの人生の重要な価値基準として、教育というテーマと一緒に過ごし続けると思います。


今日はここまで。おやすみなさい。